松村圭一郎はいう。
「エチオピアから中東に出稼ぎに行く女性のなかには、さまざまな理由で心を病む人がいることは、よく耳にしていた。だが、実際にそうした女性を目のあたりにすると、厳しい現実を突きつけられてしまう」(松村圭一郎「海をこえて(15)」『群像・12・P.424』講談社 二〇二四年)
ウバンチの言葉。
「『多くのことが変わってしまった。以前はタクシーのなかに監視カメラなんてなかったけど、いまはある。あなたがタクシーに乗ったら、まず写真を撮られるのよ。バスにも、街中にも監視カメラがいっぱいあって、大きな声を出したら、すぐに警察がやってくる。この一年くらいでいろんなことが変わってしまった』」松村圭一郎「海をこえて(15)」『群像・12・P.426』講談社 二〇二四年)
出稼ぎ先で精神を病む女性は一人や二人でない。そして仕方なくエチオピアに帰国してもエチオピアの病院に入院中死んでしまったり飛び降り自殺する女性は後を絶たない。
ところが先進諸国は、例えば英米中日で顕著なように、すでにこのような時期を過ぎてしまった。先進諸国が直面している日常はいわゆる「資本主義リアリズム」。なかでも自殺者を多発させているのが「うつ病」。前にフィッシャーから引用しつつこう述べた。
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(1)「ここで、自分の精神苦悩の経験を陳述するのは、それについて何か特別なことやユニークなことがあると思っているからではなく、うつ病の多くの形態は個人的で『精神的』な枠組みではなく、むしろ非人称的で政治的な枠組みを通じて理解し、対抗するのが最適であるという主張を裏づけるためである。
自分のうつ病について書くのは難しい。なぜならうつ病には、『お前はうつじゃない、自分を哀れんでいるだけだ、しっかりしろ』と自らの自己陶酔を非難するような卑屈な『内なる』声によって特徴づけられる部分があるからだ。この声は、病状について公表して語ろうとするときに誘発されがちである。もちろん、この声は『内なる』声などではない。実在する社会的勢力を内面化された形で表現したものであり、そのなかには、うつ病と政治の関係を否定することによって有利になるものもある」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.209」ele-king books 二〇二四年)
(1)で多分わかりにくくなるかも知れない部分がある。
「うつ病と政治の関係を否定することによって有利になるものもある」
実際のうつ病者としてはとてもよくわかるのだがそうでない場合、まるっきり「?」となってしまうかもしれない。補助的にもう一度別のところから引いておきたいと思う。
「フィッシャーには『何の役にも立たない(”Good For Nothing”)』という、十代の頃から彼を苦しめてきた自身の鬱病について書いた文章がある。
僕が自分の精神的苦痛の経験を書くのは、それが何か特別だったり珍しいと思ってるからじゃない。そうじゃなくて、多くの鬱の形は、個人の枠組みや心理学の枠組みではなく、むしろ非個人的かつ政治的な枠組みを通すことで、もっとも理解でき、そして闘うことができるという主張に僕が与しているからだ。
自分自身の鬱について書くのは難しい。鬱を部分的に構成しているのは、あざ笑うような『内なる』声だ。それは怠惰を責め、お前は憂鬱なんかじゃなく、単に自分を憐れんでるだけだ、気をしっかり持て、と言ってくる。この声の発言は、人前で自分の状態を打ち明けたときを引き金にして起こりやすい。もちろん、この声は『内なる』声ではまったくない。この声は、現実に存在する社会的な諸力の内面化された表現なのだ。そしてこの社会的な諸力のうちの一部は、鬱と政治とを結ぶいかなる繋がりも否認できるという特権を持っている。(”Good For Nothing”)
フィッシャーは、自身の問題は自身によって治癒できないことを誰よりもわかっていた。あなたが被っているどのような不安であれ鬱であれ依存症であれ、それが自助努力や社内出世によって解決されることはない。なぜならそれはあなたのせいではないのだから。それなのに、なぜ人は自分を責め立てるのか。それは、『自己責任』という資本主義リアリズムの倫理がそうさせているからだ。そうやって資本主義リアリズムは人々を相互に孤立させて競争に明け暮れさせていく。そこから零れ落ちた人は『内なる』声に苛まれ、悪夢を見、もしくは酒やドラッグにアディクトしてバッドトリップする。
だが、このような資本主義リアリズムの構造それ自体が悪夢でなくて、バッドトリップでなくてなんだろうか」(木澤佐登志「気をつけろ、外は砂漠が広がっている」『現代思想・6月号・P.76』青土社 二〇一九年)
ひとつの国家(特にその国の労働者階級)がほとんど丸ごとうつ状態を呈しているというのに政治とうつ病とは繋がりがなく切り離して考えることができるだなんてよく言えたものだ。そうフィッシャーは述べた。
さらに「集団的うつ」とは何か。「集団的うつ」状態に陥っている国、例えばイギリス。しかしそれに対するオルタナティヴがまるでないなんてことはない。
(2)「現在イギリスでは、特別に恐ろしい二重拘束に縛られている。『自分はなんの役にも立たない』というメッセージを一生伝えられてきた人々が、同時に『やりたいことはなんでもできる』と言われているようなものだ。
緊縮財政に対するイギリス国民の宿命論的な服従とは、意図的に醸成されたうつ状態から生まれたものとして理解しなければならない。このうつ状態は、事態は(一部のエリートを除くすべての人々にとって)これからも悪化するだろう、仕事があるだけでありがたいものだ(だから賃金がインフレにベースを合わせることを期待しないほうがいい)、福祉国家を集団的に提供する余裕はないといった了解の中に表れている。つまり集団的なうつ状態は、支配階級による再服従計画の成果である。
階級意識の再生というのは実に手ごわい仕事であり、既成の解決策に頼ったところで達成できるようなものではないけれども、集団的うつが何を言おうとも、達成可能な課題ではあるのだ。新しい政治参加の形を考案し、退廃してしまった制度を復活させ、私有化された不満を政治化された怒りへと変化させることーーーこれらすべてが実行可能であり、それが実行されたときにどんな可能性があるのか、あらかじめ知りはしないのだ」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.212~213」ele-king books 二〇二四年)
主体というのは主体的積極的に何か「やっている」と思い込みがちで「やらされている」とはほとんど疑いひとつ持つ機会を持たないものだ。けれども「階級」というものについてマス-コミを始めとする「大文字の言葉」がその辺りの事情を「避けて通ることができる」のは紛れもなく「階級」というものが実在するからであり、そうである場合に限って「避けて通ることができる」というのはもはや言うまでもないかも知れない。
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ゆえにこの窮屈な日常に対するオルタナティヴはあちこちから幾らでも発生してくる。