白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ379

2024年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十一月十二日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主の妻のことなんだけど。

 

どうかした?

 

時代劇って言うの?真似して「てえへんだ、てえへんだ」って面白そうに言ってたからタマも真似しようと思ったんだけど上手く声が出ないんだよね。

 

真似しなくていいよ。

 

思い出し笑いっていうのかな、楽しそうだったよ?

 

じゃなくて。「てえへん」ってのが飼い主の耳には「底辺」って聞こえてくる。

 

言っちゃダメなの?

 

そんなことないよ。ただね、今度再選した大統領周辺なんて喧しいのなんの。日本で流行中のフレーズへ意訳すると「(底辺の)人々の正体ってさすがに怖いわー」とか「(底辺?)死んでた、ウヒ」って意味の英語が飛び交ってる。

 

デマじゃん。ホラーってそういうこと?

 

英語自体は何にも怖がることはない。よくわからないのはせっかく覚えて育った公用語なのにハーケンクロイツみたいにこの際全部捨ててもいいって人たちが圧倒的多数派支持になったってことかな。「無敵の人」って言うだろ?軍隊志願者を作り続けるには「無敵の人」の増産が一番さ。そんな「無敵の人」の大量生産にまんまと成功した超大国がそれよりさらに悪い意味で「無敵の国」になっちゃった。半分壊れかかったまんまだとそうなるのはわかりきってる。その意味ではいわゆる少数派に転落した政治政党の責任もかなり重い。でもね、どちらに転んでも何かといえば常に日本から吸い上げられるのは確かなんだ。それより時代劇ってえと、その昔、ちゃんばらロックンロールって曲があった。

 

ふ~ん、歌なの?

 

歌だよ。中学時代にギターで耳コピした。そんなの誰もやらない中学校でね。平々凡々な公立中学の軽音楽部の分際でエレキギター禁止ってご立派な規則があった。けど問題はちょっと違う。軽音学部でエレキギター禁止なら在校中の生徒は特例でもないかぎり全員禁止かとほとんどみんなが錯覚しちまってた。絶対的校則じゃないのに。でも何らかの部活にはとにかく全員参加しないと許されない決まりがあってね。そこなんだよ。日本の空気の作り方ってのは。青春?何それ?これからという時すでに終わったと思ったね。思い出しただけでぞっとする。

 

へえ、ホラーって昔から身近にあったんだね。やれやれ。タマは朝夕に窓からぼうっと中学生さん高校生さんの登下校眺めててそのまま居眠ってしまうことが多くてそりゃあ心地いいのさ。でもね、起きてるときに道行く生徒さんたちを眺めてると大抵は端末見てるから思うことはあるわけ。例えば恋愛なんかも端末通して結構ホラーだったりするのかな~とか。発情期の猫だと下手すれば殺し合いになっちゃったりするじゃん、結果的に。

 

それは目に見える殺しだろ?今の端末だと特権的立場からすればいつでも覗ける。だから中高生も含めて特に社会人とかだと誰かに覗かれてるかもと薄々知りつつそれはそれで仕方ないという諦めがあってさ、いっそ端末限定の言葉ばかりで話を推し進めていく人は随分多いよね。端末って楽だし。するとどこへ出るか。話を推し進めていく過程で話の重要な核心へじわじわ迫っていく気がするだろ?ところが実をいうと重要か重要でないか境界線が消滅していく世界へ向けてころころころころ変わってく。猫の目みたいにさ。

 

あ、それが言いたかったのか!タマ考えて損しちゃった。寝る。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ダイアレクト。外出時はシャットアウトしたくても否応なく聴こえてくる音楽で溢れかえっているが、それを嫌がる人も多いので、そうなると外出先によってはただ単にアンビエント風の音楽を流しておけば無難だろうみたいな場所が増えてきた。そういう時はアンビエントならアンビエントでその出発点に立ち戻ってみればいいのではと思わせてくれる。う~ん、なるほど。


Blog21・バッドトリップとしての新自由主義と「集団的うつ病」

2024年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

引用したいと思っていたわりにはなかなかその機会がなかった。しかし思いつくことは幾つかあって、要因のひとつとしてマス-コミがほとんどいつも日本政府の政治的失敗を覆い隠して恩を売ることにかまけている一方、逆に読者視聴者の側は心身ともにだんだん弱り果てていくという事情が大きかったことは確かだ。逆説的だが「ほとんどのマス-コミと政府」は揃いも揃って消費者を消滅させていきマス-コミも政府も自滅へ加速したがっているとしか思えない。

 

マーク・フィッシャーから二箇所。

 

(1)「ここで、自分の精神苦悩の経験を陳述するのは、それについて何か特別なことやユニークなことがあると思っているからではなく、うつ病の多くの形態は個人的で『精神的』な枠組みではなく、むしろ非人称的で政治的な枠組みを通じて理解し、対抗するのが最適であるという主張を裏づけるためである。

 

自分のうつ病について書くのは難しい。なぜならうつ病には、『お前はうつじゃない、自分を哀れんでいるだけだ、しっかりしろ』と自らの自己陶酔を非難するような卑屈な『内なる』声によって特徴づけられる部分があるからだ。この声は、病状について公表して語ろうとするときに誘発されがちである。もちろん、この声は『内なる』声などではない。実在する社会的勢力を内面化された形で表現したものであり、そのなかには、うつ病と政治の関係を否定することによって有利になるものもある」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.209」ele-king books 二〇二四年)

 

(1)で多分わかりにくくなるかも知れない部分がある。

 

「うつ病と政治の関係を否定することによって有利になるものもある」

 

実際のうつ病者としてはとてもよくわかるのだがそうでない場合、まるっきり「?」となってしまうかもしれない。補助的にもう一度別のところから引いておきたいと思う。

 

「フィッシャーには『何の役にも立たない(”Good For Nothing”)』という、十代の頃から彼を苦しめてきた自身の鬱病について書いた文章がある。

 

僕が自分の精神的苦痛の経験を書くのは、それが何か特別だったり珍しいと思ってるからじゃない。そうじゃなくて、多くの鬱の形は、個人の枠組みや心理学の枠組みではなく、むしろ非個人的かつ政治的な枠組みを通すことで、もっとも理解でき、そして闘うことができるという主張に僕が与しているからだ。

 

自分自身の鬱について書くのは難しい。鬱を部分的に構成しているのは、あざ笑うような『内なる』声だ。それは怠惰を責め、お前は憂鬱なんかじゃなく、単に自分を憐れんでるだけだ、気をしっかり持て、と言ってくる。この声の発言は、人前で自分の状態を打ち明けたときを引き金にして起こりやすい。もちろん、この声は『内なる』声ではまったくない。この声は、現実に存在する社会的な諸力の内面化された表現なのだ。そしてこの社会的な諸力のうちの一部は、鬱と政治とを結ぶいかなる繋がりも否認できるという特権を持っている。(”Good For Nothing”)

 

フィッシャーは、自身の問題は自身によって治癒できないことを誰よりもわかっていた。あなたが被っているどのような不安であれ鬱であれ依存症であれ、それが自助努力や社内出世によって解決されることはない。なぜならそれはあなたのせいではないのだから。それなのに、なぜ人は自分を責め立てるのか。それは、『自己責任』という資本主義リアリズムの倫理がそうさせているからだ。そうやって資本主義リアリズムは人々を相互に孤立させて競争に明け暮れさせていく。そこから零れ落ちた人は『内なる』声に苛まれ、悪夢を見、もしくは酒やドラッグにアディクトしてバッドトリップする。

 

だが、このような資本主義リアリズムの構造それ自体が悪夢でなくて、バッドトリップでなくてなんだろうか」(木澤佐登志「気をつけろ、外は砂漠が広がっている」『現代思想・6月号・P.76』青土社 二〇一九年)

 

ひとつの国家(特にその国の労働者階級)がほとんど丸ごとうつ状態を呈しているというのに政治とうつ病とは繋がりがなく切り離して考えることができるだなんてよく言えたものだ。そうフィッシャーは述べた。

 

 

さらに「集団的うつ」とは何か。「集団的うつ」状態に陥っている国、例えばイギリス。しかしそれに対するオルタナティヴがまるでないなんてことはない。

 

(2)「現在イギリスでは、特別に恐ろしい二重拘束に縛られている。『自分はなんの役にも立たない』というメッセージを一生伝えられてきた人々が、同時に『やりたいことはなんでもできる』と言われているようなものだ。

 

緊縮財政に対するイギリス国民の宿命論的な服従とは、意図的に醸成されたうつ状態から生まれたものとして理解しなければならない。このうつ状態は、事態は(一部のエリートを除くすべての人々にとって)これからも悪化するだろう、仕事があるだけでありがたいものだ(だから賃金がインフレにベースを合わせることを期待しないほうがいい)、福祉国家を集団的に提供する余裕はないといった了解の中に表れている。つまり集団的なうつ状態は、支配階級による再服従計画の成果である。

 

階級意識の再生というのは実に手ごわい仕事であり、既成の解決策に頼ったところで達成できるようなものではないけれども、集団的うつが何を言おうとも、達成可能な課題ではあるのだ。新しい政治参加の形を考案し、退廃してしまった制度を復活させ、私有化された不満を政治化された怒りへと変化させることーーーこれらすべてが実行可能であり、それが実行されたときにどんな可能性があるのか、あらかじめ知りはしないのだ」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.212~213」ele-king books 二〇二四年)

 

主体というのは主体的積極的に何か「やっている」と思い込みがちで「やらされている」とはほとんど疑いひとつ持つ機会を持たないものだ。けれども「階級」というものについてマス-コミを始めとする「大文字の言葉」がその辺りの事情を「避けて通ることができる」のは紛れもなく「階級」というものが実在するからであり、そうである場合に限って「避けて通ることができる」というのはもはや言うまでもないかも知れない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて973

2024年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

クラシックやジャズばかり聴いていると、テクノ(電子音楽)、エクスペリメンタル(実験音楽)、昨今のメタルやそのまたパロディに至るまで耳が延びていく。しかしパロディというのは結構難しい。かつての商業ロックを今の商業モダンメタルで料理するとどうなるか。パロディになるんだけど瞬時に消費されて終わる商業パロディになる。けれど商業路線は商業路線でも視聴者が聴いて笑っている間だけでなく帰宅してから自分もやってみようと思って取り組んでいる間にどんどん労働を放棄させてしまうくらいの仕上がりってのはなかなかない。

 

ひとつ見つけたんだけどこれなら案外初心者向けなのでは。

もうひとつ難しいパロディというのはそれがパロディに聴こえないって特徴がある。例えば一九七八年に発表された近田春夫のこれ。

今の日本アニメのテーマソングとかだとここというところで転調して印象付ける方法があるわけだが、近田春夫がやってみせたことはそれをギターソロ部分でやったということだけじゃなくてそのギターソロが実を言うとまだUFO時代だったマイケル・シェンカー奏法のほぼ完全なパクリであって、日本のいわゆる昭和歌謡というのはパクリだらけだってこっそり暴露しているところ。さらにひとつの楽曲として聴くことができる点で今なお評価が高い。