白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ391

2024年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十一月二十四日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

先日プルーストの文庫分を詰めてあるダンボールをがさごそやっていたタマ。飼い主の匂いが染み込んでいるので仕方ないなあと思っていたのだが今日はなんとハン・ガン「別れを告げない」の背表紙を軽く甘噛みしている。

 

おいおいタマさん、それ買ったばかりで飼い主まだ読んでない。ダメだよ。

 

なんで?

 

うん。日本の大都市の大型書店じゃ「少年が来る」ばかり売れまくっててマス-コミもそればかりせっせと宣伝してるんだけど実をいうと「別れを告げない」とセットで読まなきゃ今の日韓関係の微妙な揺れ具合なんてわかりっこないのさ。で、年末年始の読書のために近くの書店に頼んで取り寄せてもらったばかりなわけ。

 

そんなもんですか。

 

ようやくって気持ちもある。飼い主の実家から自転車で十分くらいのところに吉田寮っておんぼろの学生寮があってさ。三十五年以上前の話になるけど学生時代にときどき顔を出すと日韓の話題だけで五、六時間くらいは費やしてた。深夜になると一度眠って翌日の朝からまた話の続きが始まる。でさ、深夜にみんなが寝静まった頃に寮の外に出て深呼吸してると野良さんが通りかかるんだ。猫はその頃から吉田の森周辺で愛されキャラだった。特に学生には。ジャズの中古レコード店とか古書店とかが集まってたんだけどお店のそばにいつも野良猫の姿がちょろっと見え隠れしてたな。

 

タマが生まれるずっと前からそうだったんだ。けど「別れを告げない」は何でさほど話題になってないの?

 

なってないことはないんだ。ただ在日コリアンの話を深掘りしていこうとするとそそくさと逃げ散ってしまう読者が日本では今なお多いってことだね。

 

日本のは読まないの?

 

読みたいんだけどそんないっぺんに買えない。在日コリアンの多い大阪の生野や鶴橋には障害者介護でしょっちゅう出入りしてたから飼い主としちゃあそんな思い入れもある。あ、生野周辺でも野良猫は結構可愛がられてたんだぞ。

 

猫冥利につきる話だなあ。それはともかくこれからぐぐっと読ん込んで猫みたいにしみじみ匂いをこすり付けようってことなんだね。

 

そりゃちょっと違

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。マシュー・ハルソール。モーダルな演奏が特徴的。スピリチュアル的な響きはコルトレーンを思わせたりもするが実験的により幅広くクールな音を送り出し続けている。


Blog21・新自由主義の逆説的急所

2024年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

新自由主義には「何をやっても無駄だ」とか「どんなオルタナティヴも無意味だ」という精神状態に置いておくための装置が備わっている。

 

「本当に退屈することができた時代、継ぎ目のない刺激のマトリックス(母体)がなかった時代」

 

一九七〇年代についてそうフィッシャーは捉える。

 

「生産的な退屈の時間」

 

当時はあった。覚えている人々も数多いに違いない。

 

「『うつ病的快楽主義』に関していえば、うつ病とは通常、何ものからも快感を得ることができない、いわゆる快楽消失(アンヘドニア)として語られます。しかし、ティーンエイジャーたちを見ていると、彼らの場合、快楽とはこうも手軽に得られるものであって、快楽の入手可能性自体がうつ病の原因になるというような、ほとんど逆の症候群があるように思えたのです。人の自尊心や満足感、あるいはもっと肝心なこととして、何かへ関与しているという感覚を育てることのできない、快楽の消費者モデルのようなものが、この問題に関わっているのでしょう。その代わりに、小さな快楽の瞬間が連射的にはじけるだけなのです。それによって失われるもののひとつに、ある種の生産的な退屈の時間があります。

 

七〇年代に退屈がもたらした実存的危機ーーーつまり、本当に退屈することができた時代、継ぎ目のない刺激のマトリックスがなかった時代ーーーそうした退屈の経験可能性とパンクのような現象との間には、大きな関係があったと思います。二十一世紀の文化において低レヴェルの刺激がつねに得られるということによって、そのような退屈はあらかじめ生み出されるのだと思います。つまり、このような形の刺激では、人々を自分自身の外部に連れ出し、自分自身を超えるような形で巻き込むことはできないのです。いわば機能性症状(functional misery)のような形で、人々は自分自身の中に閉じ込められているのです。ある意味ではこのまま続けていくのに十分なほど惨めではありますが、主体として困窮状態に達するほど、あるいは、なぜ自分がこうなってしまったのか、その一般的な社会的原因に疑問を呈するほど追い込まれているわけではないのです。つまり、うつ状態を維持するのにちょうどいいくらいの快楽があるということです。これは、うつ病的快楽主義を捉えるひとつの見方です」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.46」ele-king books 二〇二四年)

 

難解なことは何一つ言っていない。すべての国民を巨大政財官界が理想とするような「うつ病状態」に保っておくためには「小さな快楽」、「ちょうどいいくらいの快楽」の時間を「継ぎ目」なく与えておくのがいい。新自由主義下では常にこのような操作がとりわけマス-コミや端末を通して機能しているというわけだ。

 

外出しているにもかかわらずその主体は外と接してはおらず逆に端末と接しているのであり、極めて小さな自分たちだけの世界に引きこもってばかり。一時避難としての引きこもりとは全然ない。常時引きこもりのうちに「小さな快楽」を絶え間なく与えられることによって「うつ病的快楽主義」に陥る。しかもそのほとんどは無意識的なレヴェルに留まったまま意識にのぼってくることはない。資本にとってこれほど操りやすい国民はまたとない。

 

騒々しいアメリカとはまた違いどこへ行っても「階級」というものの存在に直面せざるを得ないイギリスでは先進諸国の中でも気づくのが速かったと言えるかもしれない。ところが日本でもここまで階級格差が目に見えて巨大化してくると徐々に「階級」の実在にもかかわらずなぜそれが政治問題化されないままなのかという問いに気づく人々も出てくるのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて985

2024年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Hub」

机のそばに積んである本の間に顔を突っ込んで栞を引っ張り出す。本棚部屋へ栞を持って行きドリブルしたり噛んだりしたり。

 

Autechre「Nuane」

猫のゴロゴロ音に似た低音のグルルル音が不規則的に出現して飽きさせない。そこへ飼い主が台所で格闘する時に大変よく似た金属音や調理音が入ってくる。パソコンで流していると飼い主の椅子の脚を顔とお腹とですりすりしに来る。尻尾をゆるゆる振って見せる。栞をどこへやったのかと飼い主がラックの下を覗き込んで手で探ろうとすると猫もそばから覗き込む。