白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kから読者への遺産=《位置決定不可能性》

2022年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
Kが本当に潔白であればあるほど、にもかかわらず逮捕されたからには完全な無罪判決を勝ち取ることはもはや絶対にないと言ったティトレリ。しかしそこで完全な無罪判決は除外するにしてもティトレリの立場から助言でき、なおかつ手に入れられる可能な限り有利な態度はもはやまるでなくなったというわけでもないという。それは裁判の仕方についての二つの戦術。「見せかけの無罪と引延ばし」とである。Kはすでに二つの戦術を<欲望>している。この箇所で<Kは露骨に欲望である>。

さてティトレリはまず「見せかけの無罪」について述べる。説明の中に「上からの命令」とあるが「上」とは何か。一向に判然としないまま説明は続く。さらに「裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされている」。しかし「真の無罪」は恐ろしく古いエピソードであってもはや「神話」として語り継がれているばかりであり「神話」を根拠化することは考えられもしない馬鹿げた態度であるとされている。「真の無罪」の場合「訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます」。「神話」の次元へ編入されていて今やあり得ない事態を告げたティトレリはおもむろに「見せかけの無罪」について語り出す。

「『それは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.220~221」新潮文庫 一九九二年)

次の説明の前半は訴訟に関する書類の膨大さを物語るが、それらは裁判機構の中でぐるぐる回転を繰り返しているばかりでなるほど無罪判決の<見せかけ>を呈しはするものの裁判所には<忘却>というものはまるで存在しないという。だから被告はいずれ「新しい逮捕」に直面することは避けられない。従ってようやく手に入れたと思われた「自由」はほんの一時的な幻想でしかないということになる。

「『書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起っていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧(かんぺき)である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺(だま)されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日ーーーだれにも予期できませんーーーどこかの裁判官が書類をいつもより注意深く手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.221」新潮文庫 一九九二年)

裁判所は<忘却>を知らない。しかしドゥルーズ=ガタリは絶対的記憶装置に対して「反-記憶」としての<生成変化>という態度を逃走線として上げている。

「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.280」河出文庫 二〇一〇年)

反時代的な<忘却>。実をいうと、ドゥルーズ=ガタリはこの概念をニーチェから借りてきた。

「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫 一九九三年)

創造とはどういうことか。それを言いたがっているわけだが、その上でドゥルーズ=ガタリはこう述べる。

「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならないからである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.285」河出文庫 二〇一〇年)

創造。例えば誰もが知っているモーツァルト「きらきら星」。<脱領土化>としての「活発な創造行為」の一例にほかならない。

「モーツァルトにあらわれる『ああママ、お話があるんだけどーーー』〔キラキラ星変奏曲の冒頭〕、モーツァルトのリトルネロ。ハ調の主題に十二の変奏が続く。主題を構成する一つ一つの音が二重化しているだけでなく、主題自体が内側から二重化をとげている。音楽は射線による、あるいは横断線による特異な処理をリトルネロにほどこし、リトルネロをその領土性から引き離す。音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ活発な創造の行為なのだ。リトルネロが本質的に領土的で、領土化や再領土化をおこなうものだとしたら、音楽のほうはリトルネロを脱領土化した内容に変え、脱領土化した表現の形式にこれを対応させるのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.293」河出文庫 二〇一〇年)

さらに重要なのは、音楽というのは本来的に《決定不可能性》として出現するという事情である。

「音楽をとらえる女性への生成変化や子供への生成変化は、声の機械状編成という問題にあらわれる。声を機械状にするということは、最初の音楽的操作なのである。この問題が西洋音楽ではどのように解決されたかということ、イギリスとイタリアにあらわれた二通りの解決策はどのようなものだったかということは、すでに人の知るところだ。一つは、カウンターテナーの裏声である。つまり『本来の声より高く』歌う、あるいは横隔膜を支えにすることも、気管支を通り抜けることもなく、副鼻腔の空洞と喉頭と口蓋とで声を響かせる歌い方、もう一つはカストラートの、腹から絞り出した声。つまり知覚しえぬもの、触知しえぬもの、漂うものに肉感的実体を与えたかのような、『強さと音量にまさる、けだるい』歌い方。ドミニク・フェルナンデスは、この主題について見事な書物を著し、幸いにも音楽と去勢の関連をめぐる精神分析的考察をひかえつつ、声の機械装置という音楽の問題は必然的に大規模な二項機械の廃止を、つまりあらゆる声を『男性か女性』のいずれかに振り分けるモル状形成の廃止をもたらすということを明らかにした。つまり音楽にとっては、男《か》女かという問いはありえないのである。しかし、フェルナンデスが援用しているアンドロギュノスの神話で十分かということになると、それは疑わしい。問われるべきは神話ではなく、現実の生成変化だからである。声そのものが女性への生成変化や子供への生成変化に達するべきだからである。そしてこれこそまさに音楽の驚異的な内容なのだ。とすれば、フェルナンデスも指摘しているとおり、女性を模倣すべきでも、子供を模倣すべきでもないのだ。たとえ歌うのが子供だとしても、それを模倣すべきではないのだ。音楽の声そのものが子供に<なり>、同時に子供は音に、純然たる音に<なる>。そんなことのできる子供はいたためしがない。もし子供にそれができたら、それはまた子供以外のものに<なる>ことによって、不思議な、この世のものとは思えぬ官能的な世界に住まう子供に<なる>ことによって達成されると考えるべきだろう。要するに、脱領土化は二重の運動なのである。子供への生成変化の中で声が脱領土化するだけでなく、声が子供に<なる>と同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげるのだ。『子供に羽が生えた』とシューマンは言う。音楽をとらえる動物への生成変化にも、やはり同様のジグザグ運動を見出すことができる。モーツァルトの音楽が、いかに馬への生成変化や鳥への生成変化に貫かれているか、マルセル・モレが明らかにしている。しかし馬や鳥の『真似』をして喜ぶような音楽家はいない。音のブロックが動物への生成変化をその内容とするには、同時に動物も音を通じて動物以外のものに、夜や死や悦びなど、何か絶対的なものに<なる>必要がある。絶対的なものとは決して一般性ではなく、また単一性でもなく、『これこそ死』とか『あれこそ夜』という<此性>だ。音楽はその内容として動物へのは生成変化を選びとる。しかしその場合、たとえば馬なら馬は、天界や地獄から響いてくる蹄の音さながらの、小刻みなティンパニーの軽やかな音をみずからの表現とするのである。そして鳥はグルッペティ〔回音〕やアッポジャトゥーラ〔前打音〕やスタッカートに表現を見出し、それが鳥を、天がける魂に変える。モーツァルトの作品で斜線を形成するのはアクセントである。アクセントを追いかけ、これを見守っていなければ、比較的貧しい<点のシステム>に後戻りすることになるだろう。音楽的人間は鳥の中で脱領土化する。そのとき鳥それ自体も脱領土化し、『変容』をとげた鳥となる。自分とともに生成変化する者と同時に生成変化をとげる天上の鳥。エイハブ船長はモーヴィ・ディックとともに抗しがたい<鯨への生成変化>に巻き込まれる。しかしそれと同時に、モーヴィ・ディックなる動物もまた、耐えがたいほど純粋な白さに、まばゆいばかりに白い城壁に、銀の糸になって伸び、少女の『ように』しなやかになり、鞭のようによじれ、さらには城塞のように聳えなければならない。文学も、ときとして絵画に追いつき、さらには音楽にさえ追いつくことがありうるのだろうか?そして絵画が音楽に追いつくこともあるのだろうか?」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.300~302」河出文庫 二〇一〇年)

そのような<変容への欲望>とKの<訴訟への欲望/欲望としての訴訟>とは似ているようで違っている。Kは失敗しないわけではないが失敗するわけでもない。というより、どちらとも言えない《位置決定不可能性》として生きていくことになる。

「『それではしかし』、とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りして言った、『第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?』。『その点については』、と画家は答えた、『はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう?そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません』。『しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?』、とKは言って、何か拒むように頭をまわした。『もちろんです』、と画家は言った、『第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです』。Kは黙っていた。『見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね』、と画家は言った、『もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?』Kはうなずいた」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.222~223」新潮文庫 一九九二年)

ティトレリのいうように「第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕が」続く。「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しは必然的に生じてくる。そこでティトレリはKの焦りを見越したかのようにいう。「あなたには引延しのほうが向いてるかもしれない」。

「城」の中に出てきた一節と同じことだ。延々と引き延ばされるばかりで決してやって来ない「決済」。いつまでも続く「未決状態」。Kは音楽になれない人間であり、歌うことができない人間であり、要するにヘーゲル弁証法的に振る舞うことしか知らない。どこにでもいるごく普通の市民の一人である。カフカがKにヘーゲル的身振り仕草を与えるのは当り前であってほかに有効な方法など考えられもしない。しかしそんなKを描くことでカフカは読者に向けて或る種の<教え>を未来に与えることになった。ところがカフカ自身にしても自分の小説がここまでそっくり瓜二つな未来の到来を予告しているとは思いも寄らなかったに違いない。一方の「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しはフーコーが論じた監視社会に対応し、もう一方の「引延し」は管理社会に対応する。ティトレリはこれからそれについて話し始めるところだ。その後、アトリエの澱んだ空気以上に澱んだ嫌な空気がKに近づいてくる。あたかもホラーのようだ。しかしホラーではない。さらにSFとはもっと違う。むしろKは実にリアルな光景を目にすることになる。

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Blog21・<蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう>アトリエの奇妙な設計

2022年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ティトレリの話を聞いているKには何か根本的に矛盾しているとしか思えない点がある。それを指摘するとティトレリはいう。

「『公けの裁判所の背後で試みられていることは、いささか事情が違うんです。背後とはつまり、審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとかですね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)

ティトレリは「背後」というのだが、それは公けに演じられる訴訟とはまた別に「黒幕」がいるということを言っているわけではまるでない。表層を見ているばかりでは見えてこない深層が別のところにあるという意味で言っているのではなく、むしろ見るべきはありもしない深層ではなく表層こそが問題なのだという点に注目を促しているに過ぎない。ティトレリのいう重要な表層は「公け」に信じられているような華々しい法廷などではまるでなく「審議室とか、廊下とか、あるいは、たとえばここ、このアトリエとか」という場所でのやりとりである。常識的に信じられているアクセントの位置が実は異なるというだけのことだ。そしてこれらアクセントの位置はティトレリが言っているように複数あり、いつも移動しており、どれが決定的かなど誰にもわからない。それを知らないと訴訟に勝つようなことは永遠にやってこない。またティトレリはそもそも告訴された被告が裁判に勝つということは間違っても絶対にないという。Kは自分の潔白を主張しようとしている。けれどもティトレリに言わせればKが本当に潔白であるとすれば、にもかかわらずなぜか被告になったということがそれこそもう絶望的だという。

「『いま問題になってるのは二つのそれぞれ違う事柄(ことがら)です、つまり法律に書いてあることと、わたしが個人的に体験したこととで、それを混同しちゃいけません。法律には、といってもわたしは読んだことがあるわけじゃありませんが、もちろん一方では、潔白な者は無罪とされる、と書いてある、しかし他方ではそこに、裁判官は個人的に影響されうるものだ、なんてことが載ってるわけじゃありません。ところがわたしが経験したのはまさにその正反対のことですよ。わたしは真の無罪という話は聞いたことがないが、影響されたという話ならたくさん知っています。もちろん、わたしの見聞した事例の中に潔白の場合が一つもなかったのかもしれない。しかしそんなばかな話が一体ありうるもんでしょうか?あんなにたくさんの事例の中に潔白の場合がただの一つもなかったなんて。すでに子供のころからわたしは、父が家で訴訟の話をするのや、アトリエに来た裁判官が裁判所の話をするのを、じっと聞いてきた者ですよ。なにしろうちのまわりじゃそれ以外の話なぞしないんですからね。そのあと自分で裁判所に行けるようになるとすぐ、わたしはあらゆる機会を利用しては無数の訴訟を見、その重要な段階に耳を傾け、目にふれるかぎりは追求してきました。それなのにーーーこれは認めぬわけにはいきませんがーーーただの一度でも真の無罪判決に出会ったことがないのですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.213~214」新潮文庫 一九九二年)

文章にすると相当混み入った厄介な事態に見える。しかし現代アートの世界では戦後早くからかなり的確に表現された作品群が多数出現している。例えば二枚のガラス板が決して割れることなく互いに突き刺さり合って空中で静止しているような作品がそうだ。それが難解に見えるというのはクラッシック音楽で言えばベートーベンの交響曲こそが「わかりやすい」基準であると信じて疑わないような人々のあいだに限った話であるに過ぎない。かといってベートーベンの楽曲レベルが低いというわけでは全然ない。グレン・グールドの弾くベートーベンは異色だろうか。アファナシエフの弾くショパンはあまりにも遅いだろうか。エリック・サティ作曲の全楽曲は音楽ではないのだろうか。とすれば音楽などもはやどこにもないということになってしまうに違いない。難解か難解でないかという絶対的基準はすでに消滅して久しく、世界最初の総力戦が戦われた時期から考えるとしても少なくとも百年は経過しているのであって、ニーチェの言葉でいうと<神は死んだ>というに過ぎない。現代アートの場合、今なお難解だと酷評されるのはそれが見えているのに見えていないことと関係している。ヴィトゲンシュタインのいうように眼鏡のようなものだ。眼鏡はあまりにも近くにあるため普段は意識していない。だが眼鏡を指して難解だと非難するのは眼鏡に「いんねん」を付けるに等しい滑稽な仕草でしかない。ただし現代アートの世界で「アート、アート」と連呼していても実はとんでもない駄作や失敗作が多数あるのは確かだ。クラッシック音楽の古典にも駄作や失敗作が無数にあるのが確実であるように。

ところでティトレリのアトリエは狭いだけでなくどこもかしこもおかしな設計になっている。裁判官が出入りする「壁にある小さなドア」があり、それはベッドでほとんど隠れていたりする。ティトレリはその説明をしたすぐ後にひとこと付け加える。

「『ここじゃどのドアでもちょっと力を加えれば蝶番(ちょうつがい)が外れてしまうんですよ』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)

危険な建築物だというわけではない。何かの拍子にたちまち「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」建築物、本来なら「ばらばら」の建材を組み合わせてさらに増改築を繰り返した<モザイク>でしかないと画家は言っているわけだ。そこで「蝶番(ちょうつがい)が外れてしまう」とはどういうことか。ラカンは特定の精神疾患(主に統合失調症)で生じる症状について「クッションの綴じ目が飛んでしまう」といっている。

「すべてはシニフィアン(意味するもの)の中にあるのではありません。精神病で起きていることへと接近するためには、それとは別の領域から始めなくてはなりません。その数がいくつか私は知りませんが、人間存在がいわゆる正常であるために必須の、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との間の基本的接着点の最小数はいくつかということを決定することは不可能ではありません。つまり、その最小数の綴じ目が満たされない時、あるいはそれが緩んだ時、精神病が起こることになる最小数です。

私が今申し上げていることはまだ全く粗けずりなものでしかありません。しかしここを出発点としてこそ、次回、主体の『人格性』の役割、つまりフランス語で『je』と『moi』とはいかに分化するのかということを検討することができるのです。

もちろん、いずれの国語(ラング)といえども、シニフィアンの次元で特権的な位置にあるというわけでは決してありません。それぞれの国語(ラング)の資産となっているものは、それぞれ大変異なるものですし、常に限りのあるものです。しかしそれでも、いかなる国語(ラング)も、それぞれシニフィカシオン(言語活動)の全領域をカバーしています。

シニフィアンの中で、人称はどこに位置しているのでしょう。いかにしてあるディスクール(言表)がディスクール(言表)の体をなすのでしょう。自分自身のものと思われるディスクール(言表)が、他ならぬシニフィアン(意味するもの)の平面で、それが自身のものであるということが主体に解らなくなるほどに脱人称的な性質を帯びるということが、どの程度まで可能なのでしょうか。

それが精神病のメカニズムそのものだと言っているのではありません。精神病のメカニズムはその点において現われるのだと言っているのです。このメカニズムを取り出す前に、この現象の段階で、どの点においてクッションの綴じ目が飛んでしまうのかということを見なくてはなりません。この綴じ目が飛んでしまう場合をいろいろ挙げてみると、驚くべき相関性を見いだすことができましょう」(ラカン「精神病・下・21・P.192~193」岩波書店 一九八七年)

ここでラカンが例に挙げているのは強度のPTSDが統合失調症化したようなケース。過去に激烈な衝撃を受けたためトラウマを抱え込んだ患者が現在において精神不安定な意識状態に陥っているような時、或る言葉の断片が自動的に出現することがしばしば起こる。しかしその言葉の断片はつい最近の日常生活の中から拾われた言葉の断片に過ぎず、その場で問題になっている過去の経験とはいかなる関係も持っていない断片でしかない場合がたいへん多い。ラカンはクレランボーの名を出しているが、フロイトが「夢判断」で述べていることとほとんど違わない。夢《素材》はつい最近の日常生活で見たり聞いたりした<諸断片>が用いられるが、しかし夢《内容(意味)》はほぼ全然別のことだと。

さらにKは、先程からアトリエ内部の澱んだ空気が気になっていたことに気づく。ティトレリに指摘されて気づいたようだが、言われてみるとなるほど窒息しそうな息苦しさを感じていた自分に気づく。上着を脱いでみてはと促されてKはようやく上着を脱いだ。するとアトリエの外で内部の様子を覗っていた<少女たち>の一人が叫んだ。

「『上着を脱いじゃったわよ!』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.217」新潮文庫 一九九二年)

たちまち<少女たち>はアトリエのドア周辺の隙間にひしめきあう。騒がしい音がKの耳に入る。同性愛的な場面だが、とはいえ同性愛が先にあるわけではない。<少女たち>の監視の目があって始めてそこに同性愛的な光景が演じられていると「事後的に」判別されている。ちなみに「変身」では自室に閉じこもってしまったグレーゴルの部屋に「派遣」されるのは妹のグレーテのみである。その点では極めて近親相姦的な描写が取られている。とはいえなぜ母ではないのか。当然のことながら母でない。というより母であってはいけないのである。社会倫理的な意味でいけないのではなく、資本主義的な生産様式が押し貫かれている以上、資本主義的社会機構が許さない。母との近親相姦ならただ単にオイディプス三角形型家父長制に基づく家庭構成が再生産されるばかりであって再び同じコードが反復されるに過ぎない。しかし妹との近親相姦であれば脱コード化されたまったく違うブロックを新しく出現させていくことができる。そこに資本主義独特の脱コード化・脱領土化という新しい局面が出現し、その利子はただ単なる反復とはまるで異なる二乗的、三乗的に増殖していく場が生成される。

もっとも、カフカはそれを念頭に置いてそう記述したわけではない。そうではなくそもそもカフカが勤務していた保険機構の業務内容には二面性があった。一方の官僚制ともう一方の民間会社的な性格。極めて両義的な意味を持つ職業への日常的関与によってカフカは社会全体のただならぬ変容が後に<脱コード化>と呼ばれるようになる傾向だといち早く気づいていたと言えるだろう。ゆえに<少女たち>監視人のはしゃぎ方が尋常でない過剰=逸脱した「大はしゃぎ」を取っていようと一つも不思議でない。

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Blog21・Kが見つめKを見つめる狭すぎるアトリエと<少女たち>

2022年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ティトレリのアトリエ。Kはその極端な狭さに驚く。

「Kはそのあいだに部屋を見まわした。こんなにみじめでちっぽけな部屋をアトリエと呼ぶなんて、彼一人では考えつかなかったろう。間口奥行きとも大股(おおまた)で二歩以上は歩けまい」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.199」新潮文庫 一九九二年)

狭そうに思える場所は極端に狭い。ティトリエのアトリエはその見本のようなものの一つだ。裁判所事務局の「廊下」はどうか。途方もなく「長く感じる」。実際のところどれくらいあるのか判然としない。このアパートのおんぼろぶりについては前に述べたがその階段は一段々々が異常に思えるほど高くそして狭い。「天井が高い分だけ階段も桁(けた)はずれに高く、しかも抜け部分がない上に、狭い階段は両側を壁に挟(はさ)まれていて、そのところどころごく上のほうに小さな窓がついているだけ」というもの。またフランツとヴィレムが笞刑を受けている「物置部屋」はどうか。「天井が低いのでかがみこんで、三人の男がい」るといった狭さ。さらに「声」。これまた極端に大声だったり小声だったりする。一見どうでもいいような場所やほんのちょっとした物音。そこで発生しておりKがそこを通過する際、それらのいずれもが極めて重要な意味を持ってくるわけだが、その重要性が判明するのはいつも事後的にでしかない。どれくらい重要かがわかるのはKにとって、もう「とりかえしがつかないを-持っている」という複合過去として明るみに出る。

ところでティトレリのアトリエに招き入れられたK。部屋のすぐ外ではまだ少女たちが興味津々で「隙間からでも部屋が覗(のぞ)けるのか、彼女たちは鍵穴のまわりにひしめいているようだった」。

「ドアのむこうで少女たちの声がした。ひょっとしたら隙間からでも部屋が覗(のぞ)けるのか、彼女たちは鍵穴のまわりにひしめいているようだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.204」新潮文庫 一九九二年)

ここで何度目かの「覗(のぞ)き」が問題になる。しかし覗きたがっているにしても少女たちは一体何を覗こうと望んでいるのか。アトリエ内のKとティトレリのやりとりにほんの僅かばかりだが不可解な箇所がある。それはこう描かれている。

「しかし彼を不快にしたのは実は暖さでなく、むしろそのほとんど息もつけないような澱(よど)んだ空気なのだった。部屋はおそらくもう長いあいだ換気されたことがないのだ。画家が自分は部屋に一つしかない画架の前の椅子に坐って、Kにはベッドに腰かけるよう頼んだことも、Kの不快感をさらに強めることになった。しかもKがベッドの端にしか坐らないのを画家は誤解したらしく、もっと楽にしてくれとすすめ、Kが躇(ためら)っているとご本人が出むいてきて、むりやり彼をベッドとふとんの奥深く坐らせてしまった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.205」新潮文庫 一九九二年)

なぜそうするのか理由がまったくわからない。だが当時の同時代人ではなく現代人でもわかる理由が見えている。それはジュネ文学や西鶴「男色大鑑」を通してようやく腑に落としておくしか手段がないわけだが。同性愛と言えば言えるだろう。けれどももっと注意深く見ておくべきは同性愛であろうとなかろうと二人の人間が密室で何を行っているのかということ<だけ>が問題にされているわけではまるで<ない>点だろう。むしろ二人の対話を通して何が囁かれているか、二人の身体がどれくらい近かったり遠かったりしているか、<強度>はどれくらい増大したり減少したりしているか、という<緊密性>こそ問題なのだ。そのわけはKを仰天させる発言がティトレリの口から漏らされるやKの眼前にたちどころに打ち立てられる。アトリエ内をしきりに覗いているらしい<少女たち>もまた「裁判所の一部」だと。

「『あの少女たちも裁判所の一部なんですよ』。『なんですって?』、とKはきき返し、頭を横に引いて画家をまじまじと見つめた。画家はしかしふたたび椅子に坐ると、なかば冗談、なかば説明というように言った。『なにしろすべてのものが裁判所の一部ですからね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.209」新潮文庫 一九九二年)

極端に歪んだ構造を強調するかのように描かれるアパートは、その反対方向にある建物の裁判所事務局がそうであったように「澱(よど)んだ空気」が充満している。それは貧民街にあるからというわけではなく、裁判所関連施設に共通の「澱み」なのだ。だから「ほとんど息もつけないような澱(よど)んだ空気」とある理由はティトレリの住んでいるアパート全体が裁判所の一部分だからにほかならない。では<少女たち>はなぜアトリエの鍵穴に群がって内部を覗き込もうとしていたのか。<少女たち>もまたまるでそうとは見えないにもかかわらず「監視人」を兼ねているというしかない。そう気づいたKは瞬時に考えるだろう。サルトルから三箇所。

(1)「他者のまなざしは、他者の眼をおおいかくしている。他者のまなざしは、あたかも他者の《眼の前方を》行くように思われる。この錯覚はどこから来るかというに、私の知覚対象としての相手の眼は、私からその眼にまでくりひろげられている一定の距離のところにとどまっているーーー要するに、私の方では、距離なしに相手の眼に現前しているのであるが、相手の眼は、私の《居る》場所から隔たっているーーーのに反して、相手のまなざしは、距離なしに私のうえにあると同時に、距離をおいて私を保っているからである」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.456」人文書院 一九五六年)

(2)「私の背後で枝のざわめきが聞えるとき、私が直接的にとらえるのは、『《そこに誰かがいる》』ということではなくて、『私は傷つきやすい者である』ということ、『私は傷つけられるおそれのある一つの身体をもっている』ということ、『私は或る場所を占めている』ということ、『そこでは私は無防備であって、私は何としてもその場所から逃げだすことができない』ということ、要するに、『私は《見られている》』ということである。それゆえ、まなざしは、まず、私から私自身へ指し向ける一つの仲介者である。この仲介者はいかなる本性をもつものであろうか?『見られている』ということは、私にとって、何を意味するであろうか?」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.456~457」人文書院 一九五六年)

(3)「われわれが対自をその孤独において考察したかぎりにおいて、われわれは、『非反省的な意識のうちに一つの《私》が住むことはありえない。《私》は、対象としては、反省的な意識にとってしか、与えられない』と、主張することができた。けれども、いまの場合には、『私』がやってきて非反省的な意識につきまとう。ところで、非反省的な意識は、世界《についての》意識である。それゆえ、『私』は、非反省的な意識にとっては、世界の諸対象の次元にしか存在しない。しかるに、『私』の現前化という、反省的な意識にのみ帰せられていたこの役割が、いまここでは、非反省的な意識に属する。ただし、反省的な意識は、『私』を、直接、対象とする。非反省的な意識は、《人格》を、直接、自分の対象として、とらえるのではない。つまり、人格は、《それが他者にとっての対象であるかぎりにおいて》、意識に現前的である。いいかえれば、私が私から逃れ出るかぎりにおいて、私は、一挙に、『私』を意識する。しかもそれは、私が私自身の無の根拠であるかぎりにおいてではなく、私が私のそとに私の根拠をもつかぎりにおいてである。私は、まったく他者への差し向けとしてしか、私にとって存在しない。しかしながら、この場合、『対象は、他者であって、私の意識に現前的な《自我》は、対象-他者の一つの副次的な構造もしくは一つの意味である』などと解してはならない。他者は、この場合、対象ではないし、対象ではありえないであろう。われわれがさきに示したように、他者が対象になるならば、それと同時に、『私』は、『他者にとっての対象』であることをやめて、消失してしまう。それゆえ、私は、他者を対象としてめざすのでもなく、私の《自我》を私自身にとっての対象としてめざすのでもない。私は、現在、私の手のとどかないところにある一つの対象へ向かってと同様、かかる《自我》へ向かって、一つの空虚な志向を向けることもできない。事実、かかる自我は、《それが私にとって存在するのでなく》して、原理的に《他人》にとって存在する《かぎりにおいて》、とらえるからである。それゆえ、私は、かかる自我がいつか私に与えられうるであろうかぎりにおいてそれをめざすのではなく、むしろ反対に、かかる自我が、原理的に私から逃げ去り、決して私に属しないであろうかぎりにおいて、それをめざすのである。しかしそれにしても、私はかかる自我《である》。私はかかる自我を一つの無縁な像としてしりぞけはしない。むしろ、かかる自我は、私がそれ《であり》ながらそれを《認識》しない一つの『私』として現前的である。なぜなら、私がかかる自我を発見するのは、羞恥において(他の場合には、傲慢において)であるからである。他者のまなざしを私に顕示し、このまなざしの末端において私自身を顕示するのは、羞恥もしくは自負である。また、私をして、『まなざしを向けられている者』の状況を、《認識》させるのでなく、《生き》させるのは、羞恥もしくは自負である。ところで、羞恥は、この章のはじめに指摘したように、《自己》についての羞恥である。羞恥は、『私に、まさに、他者がまなざしを向けて判断しているこの対象《である》』ということの《承認》である。私は、私の自由が私から逃れ出て、《与えられた》対象になるかぎりでの、この私の自由についてしか、羞恥をもつことができない。それゆえ、もともと、私の『まなざしを向けられている《自我》』と私の非反省的な意識とのきずなは、認識のきずなではなくして、存在のきずなである。私は、私がもちうるあらゆる認識のかなたにおいて、或る他人が認識しているところの『この私』である。しかも、私は、他者が私から奪って他有化した一つの世界のうちにおいて、私がそれであるところの『この私』である。なぜなら、他者のまなざしは、私の存在ばかりでなく、これと相関的に、壁、扉、鍵孔などをも、抱擁するからである。私はそれらの道具-事物のただなかに存在しているのであるが、それらすべての道具-事物は、原理的に私から逃れ出る一つの顔を、他人の方へ向ける。それゆえ、私は、他人の方へ向かって流出する一つの世界のただなかにおいて、他人にとって、私の《自我》である。けれども、さきに、われわれは、対象-他者へ向かっての《私の》世界の流出を、『内出血』と呼ぶことができた。というのも、事実、私のこの世界が他者の方へ向かって出血するときにも、私の方ではこの他者を私の世界の対象として凝固させるという事実そのものによって、その出血はくいとめられ、局所化されていたからである。かくして、一滴の血も失なわれずに、すべては、私の入りこむことのできない一つの存在のうちにおいてではあるにせよ、回復され、隈(くま)どられ、局所化されていた。ところが、ここでは、反対に、この逃亡ははてしがない。この逃亡は外部に自己を失なう。世界は世界のそとに流出し、私は私のそとに流出する。他者のまなざしは、この世界における私の存在のかなたに、《この世界》でありながら同時にこの世界のかなたにあるような一つの世界のただなかに、私を存在させる」(サルトル「存在と無・上・第三部・第一章・4・P.459~461」人文書院 一九五六年)

意図的に二十一世紀的だと考えて読んできたわけではないにもかかわらず、実にこうまでして、かくも執拗に現代的なのだ。スマートフォンは今やほとんど社会的インフラと化しているけれども、もはや世界を丸ごと覆い隠してしまうほど暗雲高々と監視管理ネットワークは世界を制覇することに成功している。カフカは短編「万里の長城」で、あまりに遠いところにあるため皇帝の姿などまるで見えないにもかかわらず「北京」は帝都として畏怖され君臨するわけではなく、逆にあまりに遠いところにあるため見えないがゆえに、なおさら激しい憧れを抱かせると述べた。

「中国の民衆は君主制を北京のひなた水から引き上げて、生きいきと鼓動する自分の胸に抱きしめることができない。実のところ恋いこがれ、抱擁のうちに死んでもいいと思わないでもないというのに。すなわちこのような見方は美徳でもなんでもない。それだけ奇異にうつるだろうが、まさにこのような弱点が民衆を一つにする絶好の手段であるらしいのだ」(カフカ「万里の長城」『カフカ短編集・P.253』岩波文庫 一九八七年)

ごく当たり前のように眺めていては「弱点」としか映って見えない事情が、実は「民衆を一つにする絶好の手段」になり得る。ネット社会はリゾーム化を遂げてこんがらがってしまい、いったい何がなんだかわからなくなっている部分が無数にある。しかしそれは果たして「弱点」だろうか。なるほどそう言うことはできる。だからもっと強化しなければならないと主張する権利は誰にでもある。しかしそうすればするほどサルトルのいう<まなざし>はますます熱烈に<欲望する>。この<欲望>はニーチェのいう逆転倒のように今度は監視管理される側が自ら進んで監視管理されることを熱烈に<欲望する>までに至る。

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Blog21・Kを監視しつつ案内する<少女たち>の系列

2022年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ティトレリの住居へ向かうK。裁判所事務局のある郊外の貧しい住宅街よりもさらに荒廃の激しい地区のアパートの一室。カフカの描写はその「みすぼらしい界隈(かいわい)」について十行程度にまとめているが、風景描写という点ではカフカが若い頃に愛読したディケンズの文章が頭にあったと思われる。それを参照すればだいたいの印象はわかるだろう。ディケンズの長編から三箇所引いておこう。

(1)「ロンドン。ミクルマス開廷期は先日終了。大法官閣下はリンカーンズ・イン・ホールに出廷。十一月の無慈悲な天候。泥まみれの街路。さながら大洪水が引いた直後。体長十メートルの恐竜がこのホーバン・ヒルを巨大なトカゲのごとく闊歩しても不思議ではない。煙突から舞い降りる煤(すす)ーーー静かに降る黒い霧雨ーーー亡きお日様を悼んでか服喪中かーーーその一片(ひとひら)は発育のよい雪並みの大きさ。泥と見分けのつかない犬。馬も然り。馬の目隠しまではね返る泥。絡まりあう歩行者の傘。不機嫌の伝染。夜明け以来(本当に夜が明けたと言えるとして)、何万人が足元の悪い街角で転倒。歩道に粘着する泥。泥の上に蓄積する泥。泥の複利的増加。霧。いたるところに霧。テムズ川上流の緑多い中洲や草地に霧。下流に並んだ船の間に霧。巨大な(そして不潔な)ロンドンの水辺の汚れに染まりながら流れる霧。エセックスの沼に霧、ケントの丘に霧。石炭船の調理室に潜り込む霧。大型船の帆桁(ほげた)の上で寝そべり、マストや網の間に漂う霧。はしけやボートの船べりにもたれかかる霧。グレニッジ海軍病院の病室の炉辺で咳き込む退役水兵たちの目や喉(のど)に入る霧。狭い船室で苛立つ船長の午後のパイプの柄や火皿に忍び込む霧。甲板で寒さに震える見習いの爪先を無慈悲につねる霧。橋の上を通りかかる人々が欄干越しに見下ろす霧ーーー霧にすっぽり包まれた彼らは、気球に乗って雲海の中にいるに等しい。田舎の湿っぽい畑で農夫や手伝いの小僧に太陽がぼんやり見えるのと同じ按配(あんばい)で、ロンドンの街路のそこここでガス灯の明かりが霧の中にほの浮かぶ。ほとんどの店でいつもより二時間早く点灯。ガス灯もそれがわかるのか、やつれた、気の進まない表情を浮かべている。この午後最も寒々しく、最も霧が濃く、最も道が泥だらけなのは、あの旧態依然たる愚かな邪魔者、すなわち旧態依然たる愚かな自治体の入り口を示すに格好のお飾り、テンプル・バー〔シティ区の境界に立っていた門〕のあたり。その目と鼻の先、霧のど真ん中、リンカーンズ・イン・ホールに大法官閣下があらせられる。渋滞や停頓を生み出すことにおいて、どれだけ濃い霧、どれだけ深いどろのぬかるみにも引けを取らないのが、この世で長々と罪を重ねてきたものの中で最も厄介な存在、すなわち今日(こんにち)の大法官裁判所である。このような日にこそ、真紅のクッションとカーテンという心地よい仕切りの中に、霧にかすんだ後光を頭上に輝かせて、大法官閣下がおさまっているべきであるーーーそう、そして実際ちゃんとおさまっている。いつ終わるとも知れぬ訴状を持った、大きな頬髯(ほおひげ)の大柄の弁護士が小さな声で閣下に語りかけているが、閣下はすっかり霧に覆われた天井の明かり取りを見上げながら沈思黙考の体(てい)。このような日にこそ、大法官裁判所の面々が何十人と大挙して、際限なく続く訴訟の一万分の一の行程の処理に《霧中になって》いるべきであるーーーそう、そして実際ちゃんとそうなっている。彼らはつるつる滑る判例の山の上で足の取り合いをし、訴訟手続きの詳細に膝まで埋もれながら手探りで進み、山羊や馬の毛の鬘(かつら)をかぶった頭を詭弁の壁にぶつけ、役者みたいに真面目な顔で公平な裁きをするふりをしている。このような日にこそ、事務弁護士が出てきて、敷物を設けた長い弁護士席(ウェル)に一列に並んでいるべきである(しかしその底に真実を探しても無駄だ)〔諺に、井戸(ウェル)の底に真実があるというのに〕ーーーそう、そして実際ちゃんと並んでいるではないか?彼らの何人かはこの件で大儲けをした父親から訴訟を引き継いだのだ。弁護士席は登録官の赤いテーブルと絹の法服をまとった上位法廷弁護士たちの間にあり、彼らの前には訴状、反訴状、答弁書、再答弁書、法廷命令書、供述書、一件記録、補助裁判所への事件付託、補助裁判官の報告といった高価な無用の長物が山積みになっている。当然ながら、霧は居座りを決め込んだかのように、そこに重々しくのしかかっている。当然ながら、窓のステンド・グラスは色あせ、陽の光は入ってこない。当然ながら、外の通りから迷い込んで、ドアの窓から覗きこんだ人は中に入るのをためらう。そこはフクロウ好みの暗さで、ふかふかのクッションを敷いた大法官閣下の高座から間延びした声が物憂げに天井にこだまし、閣下は光のささない天井の明かり取りを見上げ、列席する弁護士どもは幾層にも及ぶ霧の中で立ち往生!これが大法官裁判所だ。どの州にもこの裁判所が管理する崩れかけた建物と荒れはてた土地があり、どの精神病院にもこの裁判所が入院を認めた患者がいて心身を消耗し、どの墓地にもこの裁判所が死に追いやった屍(しかばね)が埋葬されている。裁判で破滅した訴人は擦り切れた靴をはき、擦り切れた服を着て、家々を訪ねて回り、借金や物乞いをする(そんな無心をされた人が誰でも知り合いにいる)。この裁判所は正しき者をくじく手段を、富める者にいくらでも提供する。それは財産、忍耐、勇気、希望を消尽させ、頭を混乱させ、胸を引き裂く」(ディケンズ「荒涼館1・第一章・P.19~23」岩波文庫 二〇一七年)

(2)「仲間たちがトム・オール・アローンズと呼ぶ、廃墟のような場所でジョーは生きている(と言うか、まだ死んでいない)。黒い、荒れ果てた通りで、上品な人々は誰も近寄らない。大胆な浮浪者は腐敗が著しく進行したぼろぼろの家屋を占拠し、自らの所有権を確立すると、そこを又貸しする。夜、これらの壊れかかった住居は貧しい人々の溜まり場となる。破滅した哀れな人間に寄生虫が取りつくように、荒廃した家屋には多くの不潔な生き物が住みつき、壁や床板かの隙間から出たり入ったりし、雨漏りがする中、蛆虫(うじむし)のようにたくさん集まって体を丸めて眠る。そして、出入りする度に熱病を持ち運び、通った跡にたくさんの害毒を撒き散らしていく。その害毒はクードル卿やサー・トマス・ドゥードル、フードル公爵、果てはズードル氏に至るあらゆる政治がらみの紳士連中が五百年かかっても取り除けないーーー彼らはその仕事をするためにこの世に生を享けたというのに!トム・オール・アローンズでは最近二度倒壊があり、その度に家が一軒倒れ、鉱山の発破のような轟音がして埃が雲のように舞い上がった。これらの事故は新聞の一段落と、最寄りの病院のベッドを一つ二つ満たした。家が倒れた跡はそのままに放置され、瓦礫(がれき)の中にそこそこ人気のある下宿やが何軒か開業している。すぐにも倒れそうな建物はまだいくつかあり、トム・オール・アローンズでの次の事故はかなりの規模になりそうだと予測されている」(ディケンズ「荒涼館1・第十六章・P.498~499」岩波文庫 二〇一七年)

(3)「チャンスリー・レインにあるシモンズ・インの扉の柱に、『一階』という銘にすぐ続いて『ヴォールズ』の名が彫り込まれている。この法学院はふるいで仕切られた大型のごみ箱〔灰と石炭をふるいわける網の目がついたごみ箱があった〕によく似た、小さい、青ざめた、白目をむいたように見える、悲しげな建物である。どうやら往時のシモンド氏は倹約家で、古い建材を使ったらしい。この建材は泥や菌類による腐敗など陰鬱と朽廃(きゅうはい)に所縁(ゆかり)のあるあらゆるものと親交を結び、仲良しの貧乏神とつるんでシモンドの名を後世に伝えんとしている〔シモンズはシモンドの所有格〕。シモンドを記念するこの薄汚れた霊廟の中に、ヴォールズ氏が《法霊》に基づいて職責を果たす事務所がある。引っ込みがちな性格を有するその事務所は引っ込んだ位置にあり、端に押しやられて隣の建物の壁と向き合っている。床がでこぼこになった暗い通路を一メートル歩くと、依頼人はヴォールズ氏の事務所の漆黒のドアに至る。それは日の燦々(さんさん)と照る真夏の朝でも深い闇に覆われた隅にあり、地下室に通じる階段の扉の黒い上部が出張っているため、何も知らぬ一般人はこれに頭をぶつけるのが常である。ヴォールズ氏の部屋は非常に小規模なもので、事務員は椅子から立たずにドアを開けることができ、同じ机を使っているもう一人の事務員はやはり居ながらにして暖炉の火を掻き立てることができる。夜には(しばしば昼にも)羊の脂でできた蠟燭をともすのと、脂でべとついた引き出しの中で羊皮や羊皮紙が腐食するのとで、病気の羊を思わせるような匂いがかびや埃の匂いと混じり合っている。そのうえに、むっと息づまるような雰囲気が漂う。壁や天井が最後に塗り直されたのはいつか、誰の記憶にもない。二本の煙突が煙を出し続け、煤(すす)がすべてをうっすら覆っている。がっしりした枠にはめられた鈍い色のひび割れした窓には、たった一つの信念ーーー常に汚れた状態を維持し、無理強いされない限り閉じたままでいるという決意ーーーしか見られない」(ディケンズ「荒涼館3・第三十九章・P.217~218」岩波文庫 二〇一七年)

なるほど文章から受けるイメージは似ている。しかしただ単に似ているというばかりであって建物の機能はまるで違う。Kはアパートの四階へ来て立ち止まる。裁判所事務局のある漫然とした建物の六階にたどり着いた時、もう帰ろうかと逡巡した際に忽然と「洗濯女」が視界に割り込んできて審理の行われるホールを案内してくれたが、今度出現するのは「洗濯女」ではなく「少女たち」である。<子供>の系列といっても構わないだろう。というのは、身体は<子供>のままなのだが言葉遣いや身振り仕草はしばしば<大人>に変わり、<大人>に変わったかと思う間もなくもう<子供>に戻るからだ。二、三人の少女たちの中に身体障害を持つ少女が一人出てくる。Kをティトレリの部屋へ案内するのはその少女。

カフカはこう書く。「十三になるやならずだろう、少し背中の曲ったその少女は、肱(ひじ)で彼を突いて、横目で彼の様子をうかがっていた。からだに欠陥のある年端(としは)もいかぬ子なのに、彼女はそのとしでもうすっかり悪(わる)になってしまっていた。少女はにこりともしないでKを挑(いど)みかかるような鋭い目付きで睨(にら)んだ」。すでに<大人>の女の風情を漂わせているようだ。「彼女はそのとしでもうすっかり悪(わる)になって」いる。Kがティトレリについて訊ねるとこういう。「あの人に何の用で来たのさ?」。

「四階までくると彼はすっかり息が切れて、歩度をゆるめねばならなくなった。天井が高い分だけ階段も桁(けた)はずれに高く、しかも抜け部分がない上に、狭い階段は両側を壁に挟(はさ)まれていて、そのところどころごく上のほうに小さな窓がついているだけだった。ちょうどKがちょっと立止ったとき、二、三人の少女がどこかの部屋からとびだしてきて笑いながら階段を駆け上っていった。Kはゆっくりそのあとについていって、躓(つまず)いてほかの子にとり残された一人に追いつくと、ならんで上りながら訊ねてみた。『ここにティトレリとかいう絵描(えか)きさんが住んでいる?』。十三になるやならずだろう、少し背中の曲ったその少女は、肱(ひじ)で彼を突いて、横目で彼の様子をうかがっていた。からだに欠陥のある年端(としは)もいかぬ子なのに、彼女はそのとしでもうすっかり悪(わる)になってしまっていた。少女はにこりともしないでKを挑(いど)みかかるような鋭い目付きで睨(にら)んだ。Kはそんな彼女の態度に気づいかなかったふりをして訊ねた。『きみはティトリレという絵描きさんを知ってる?』。少女はうなずいて、むこうから聞き返した。『あの人に何の用で来たのさ?』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.195~196」新潮文庫 一九九二年)

まるでチンピラの情婦のような口調を思わせる。だがどう見ても年齢ばかりは<子供>である。しかしカフカが生きていた頃の社会的慣習として「短かすぎるスカート」の着用とその仕草は欧米の貧困地区に隣接する売春街の光景だ。今なお東南アジアや南米の貧困地区に残っておりしばしば見られる光景でもあるのだが。

「少女は聞き返すと極端に大きく口を開け、彼がなにか突拍子もないことかおかしなことでも言ったというように手で軽くKを叩(たた)き、そうでなくても短かすぎるスカートを両手でたくしあげると、すでに上のほうでがやがや叫びが聞えるだけになったほかの少女のあとを一目散に追っかけていった。しかし次の踊り場のところでKはまた全部の少女と会うことになった。背の曲った子からKの意図を教えられて、彼を待ちうけていたのは明らかだった。全員が階段の両側に立ち、Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて、手でエプロンのしわをのばしていた。こうやって人垣(ひとがき)をつくることといい、どの顔もが子供っぽさとふしだらさとの混合をあらわしていた。Kが通りすぎると少女たちはきゃっきゃっと笑いながらまた集って、先頭にはあの背の曲った子が立ち案内役を引きうけていた。Kが迷わずに行けたのは彼女のおかげだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.196~197」新潮文庫 一九九二年)

Kは「全員が階段の両側に立ち、Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて、手でエプロンのしわをのばしていた。こうやって人垣(ひとがき)をつくることといい、どの顔もが子供っぽさとふしだらさとの混合をあらわしていた」と見ている。だがしかし(1)「全員が階段の両側に立」っている点は裁判所事務局のどんより澱んだ陰々滅々たる廊下との類似を示す。(2)「Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて」いる点はヴィレムとフランツの二人の監視人、そして「城」に出てくる二人の助手兼監視人と瓜二つである。さらに短編「中年のひとり者ブルームフェルト」では二つともそっくりの「二つのボール」が送られてくる。ボールの消息がふいに消えたところでそれまで一言も言及されていなかった二人の助手が小説の中に割り込んでくる。

「彼はいそいでドアをあけて電気をつけた。意表をつくとはこのことだろう。まったく魔法じみている。青い模様入りの小さな白いセルロイドのボールが二つ、かわるがわる上がったり下がったりしているのだ。一つが上がると、もう一つが下がる。一方が下がると、もう一方が上がる。むかし、高校のとき、小さな球(たま)を使って同じような電動実験をしたことがあるが、目の前のボールときたら、あのときの球体よりも大きいし、あきらかに実験などではなく、気ままに跳びはねているのである。もっとよく見ようと、ブルームフェルトは腰をかがめた。別に変わったボールでもない。中に小さな玉でも入っていて、それがカチカチと音をたてているらしい。糸でぶら下がっているのかと思って手さぐりしてみたが、そうではない、自然に動いているのだ。自分がもう子供でないのが残念だった。子供のときなら、こんな二つのボールを見せられたら大よろこびしただろうが、いまの自分には不快な気がするだけだった。ごく目立たないひとり者として、ひっそり生きているとしても、それはそれなりに価値がないわけでもないだろうに、どこやらの誰かが嗅ぎつけて、こんな変てこなボールを送ってよこしたにちがいない」(カフカ「中年のひとり者ブルームフェルト」『カフカ短編集・P.182~183』岩波文庫 一九八七年)

また(3)「どの顔もが子供っぽさとふしだらさとの混合をあらわしてい」るという文面は、「子供でもあり大人でもある」のかそれとも「子供でもなく大人でもない」といえばいいのかよくわからないという境界線の消滅を物語る。全然別のところでホフマンスタールは書いている。

(1)「誓って言うが、その表情にも物腰にも言葉にもぼくは今日(こんにち)現にあるがままのドイツ人を見いだせない」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.188』岩波文庫 一九九一年)

(2)「たいがいの顔はぼやけ、自由豁達(じゆうかつたつ)でなく、多種多様のことが書きしるされてはいるものの、そのいずれにも確信が欠け、崇高さが欠けている」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.188』岩波文庫 一九九一年)

「彼がさらにまっすぐ上っていこうとしたとき、彼女は階段の分れ道を示して、ティトレリさんのとこに行くにはこっちを通らなければだめだと教えた。画家のところへ行く階段は特に狭く、非常に長く、曲り角がなく、上まで全部見渡せて、上りつめたところがティトレリの部屋のドアだった。ドアの斜め上に小さな天窓がついているのでこれまでの階段と違い比較的明るく照らしだされているこのドアは、剥(む)きだしの角材を組合せたもので、その上に太い筆でティトレリという名前が赤く描きだされていた。Kがお供を従えて階段の中途に達するか達しないうちに、大勢の足音に誘われたのか上のほうでドアがちょっと開けられ、どうやら寝巻しか着てないらしい男がその隙間(すきま)に顔を出した。『おお!』、と彼は大勢が来るのを見ると叫び姿を消した。背の曲った子はうれしがって手を叩き、ほかの少女たちももっと早くKを上らせようとうしろからせきたてた」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.197」新潮文庫 一九九二年)

「城」や「審判」に出てくる監視人や助手は二人で一組。だが<子供>の系列やホフマンスタールの短編ではもっと大勢になっている。そして「どの顔も」とあるように誰もがとても似ていて区別がつかなくなりつつある。そんな時代の中継点に位置することで始めて書くことができたしその不気味さも感じ取れたのではと思われる。

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Blog21・Kの業務放棄と国家権力の脱中心性

2022年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
フルト弁護士に失望したKは自分だけでよりいっそう繊細に注意深く訴訟を押し進めていく必要性を痛感する。もっとも、そういう考えに立ち至ったのは銀行にある自分の事務室の中。思い出せば思い出すほど訴訟の弁護をフルト弁護士任せにしていることがたまらなく時間の無駄に思われ、いてもたってもいられなくなってくる。何度も繰り返し同じ話をしつこく聞かされるばかりで訴訟の進展具合は何一つはっきりしない。弁護を弁護士任せにしているということは訴訟の現場にKが直接自分の身を置いているわけではないことを意味している。それがよくない態度なのに違いないとKは考える。しかしそもそも<この訴訟>の「現場」とはどこか。それについてはまるで明らかにされないまま、ともかくフルト弁護士との解約が先決だとKは決心する。とすれば訴訟全般に渡って自分で何もかも遂行していかねばならなくなる。Kの場合ならたちまち銀行業務を犠牲にしなければならなくなるのは必至だ。Kの生活を経済的に支えているのは銀行の正社員だからなのだが、しかしこのままでは訴訟に専念することはできない。今度は銀行業務への専念が邪魔に思えてきて仕方がない。訴訟と銀行業務とを同時に行うことはもはや「拷問」に等しいとKは考える。

「それなのにいまでも銀行のために働けというのか?ーーー彼は事務机の上に目をやった。ーーーいまも顧客を通してかれらと商談しなければならないのか。自分の訴訟がころがりつつけているのに、そしてあの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の書類に目を走らせているというのに、おれはいまも銀行の業務に気を使わなければならぬのか。これではまるで拷問(ごうもん)ではないか。裁判所で承認され、訴訟と抱きあわせになってどこまでもついてまわる拷問。なのにたとえば銀合でおれの仕事を評価するさいに、こんな特別の事情を顧慮してくれる者があるだろうか?そんなやつは一人もいない」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.184」新潮文庫 一九九二年)

銀行の業務主任ともなればいつも何人かの大切な顧客を持っているわけだが、その中に或る工場主がいた。工場主はすでにKが難儀な訴訟を抱え込んでいることを知っていた。工場主の事務所に出入りしている画家がいて、その雅号はティトレリというのだが、主な収入源は肖像画制作で裁判所の仕事らしい。そこで工場主はティトレリのことを余り信用していないとは言いながらも事情通なので、一度ティトレリに会ってみてはと勧める。紹介状と住所を記した書状をKに渡してくれた。

「『ひょっとしたらあのティトレリがーーーとわたしはいま思ったんですがーーーいくらかあなたのお役に立つんじゃないか、彼ならたくさんの裁判官を知っているし、彼自身はそう大した影響力は持たないとしても、どうやったらさまざまの影響力ある人たちに近づけるか、助言をすることぐらいはできるでしょうからね。そしてそういった助言はそれ自体としては決定的なものでないとしても、わたしの考えでは、あなたの手に入れば大きな意味を持つだろうと思うんです。あなたはなにしろ弁護士みたいな方ですからね。わたしはいつも言ってるんですよ、業務主任のKさんはほとんど弁護士だって。いや、なにもあなたの訴訟のことで心配してるわけではありませんよ。しかし、どうです、ティトレリのところへいってごらんになりませんか?わたしが紹介すればあの男ならなんでもできるだけのことはするでしょう。いらっしゃったほうがいいと思いますがね』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.188~189」新潮文庫 一九九二年)

とはいえKは、工場主に紹介されたティトレリのことをいきなり重要人物だと受け取ったわけではない。顧客である工場主にしてからがティトレリについてほとんど信頼を置いていないというのに。この時、Kは銀行内で頭取代理と出世を争っていた。頭取代理の立場を脅かすほどになっていた。Kが訴訟を行なっていることも知らない。一方、さしあたりKはティトレリに会うとしても銀行へ呼んで来てもらえばいいくらいに考えていた。しかしティトレリが銀行へやって来ることで頭取代理に訴訟のことを知られたりすれば恐らく頭取代理は、Kの社会的立場の危うさを見て取り出世競争に有利になると自信をつけるかもしれない。ティトレリを銀行に呼んでライバルの頭取代理にKの弱みを知られるのは大変まずい。そう思い至るやKはいてもたってもおれなくなり今すぐにでもティトレリに会うべきだと頭の中ががらりと切り換わった。一刻も早く訴訟を終わらせるには銀行業務の幾分かを犠牲にしなければならない。とはいうものの銀行業務をそっちのけにして訴訟だけに集中することは余りにも危険すぎる。危険すぎるけれどもそうしなければ訴訟をできるだけ速やかに終わらせることはできない。ましてや頭取代理に負けることなどKのプライドが許さない。容易に全体像を見せない訴訟にはあらゆるところにKの気づかない罠がまだまだ仕掛けられているかのように思われる。そう考えるとティトレリとの面会が唐突に重要性を帯びて見えてきた。Kが抱えている顧客はまだ三人ばかり待っていたのだがKは待たせてしまっている顧客たちに今日はもう会えないと説明する。

「『ご免なさい、みなさん。残念ながらいまお会いする時間がないのです。非常に申しわけないのですが、さし迫った用事があって、、すぐ出かけなければならないのです。みなさんもごらんの通りわたしは長いことすっかり引きとめられてしまいました。明日か、またいつでも、あらためてお出(いで)くださいませんでしょうか。それともなんなら電話で用件をうかがいましょうか?それともいま簡単にご用件をうかがってのちほど文書でくらしいお返事をさしあげましょうか?もちろん近々またお出くださるのが一番よろしいのですが』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.191~192」新潮文庫 一九九二年)

長時間待たされていたKの顧客たちは当惑を隠せない。その様子を目の前にしながらKはもう外出のための外套を着込みつつある。そこへ頭取代理がやって来ていう。

「『みなさん、大変簡単な方法がありますよ。もしわたしでよろしかったら、業務主任のかわりにわたしがよろこんでお話をうけたまわりましょう。みなさんのご用件はもちろんただちに相談しなければならぬことでしょうからね。わたしどももみなさんと同じ実業家ですから、実業家の時間が大切なことはよくわかっています。こちらにお入りになりませんか?』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.193」新潮文庫 一九九二年)

Kは大切な顧客を奪われた形になる。にもかかわらずKはティトレリのところへ駆けつけずにはいられない。業務主任としての重要な仕事を頭取代理に譲り渡してしまうK。頭取代理の顔色には<力の充実>が浮き上がって見える。職場でKが持っていた<任務への力>が頭取代理の側へ移動したことをKは見てとる。

「『いまはあの男にかなわないが』、とKは自分に言った、『おれの個人的な厄介事(やっかいごと)がすっかり方がついたらあの男にはまっ先に痛い目に会わしてやろう。それもできるだけこっぴどく』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.194」新潮文庫 一九九二年)

だが訴訟が済めばいつでも挽回できる自信のあるK。むしろ銀行業務へ向いていた強度を一時的に頭取代理へ移動させておくだけのことで、訴訟が済み次第いつでも強度を自分の側へ再移動させて名誉回復できるはずだと思う。それよりもその間に訴訟に没頭できる時間ができたことでKは逆に心浮き立ってくるのだった。ますますKは<訴訟への意志>を打ち固めたことになる。むしろそうするのがうれしくてたまらないかのようだ。Kの欲望はいよいよ訴訟自身と同一化していく。

画家ティトレリ。工場主から紹介されたわけだがその名は工場主の案件でもなければKの銀行業務に関わる名でもない。事務室でのただ単なる「噂話」の中をひょいと横切った名である。裁判所事務局で整然と二列に並べられたベンチの間を横切る薄暗く長い廊下で、時々囁かれる「ひそひそ話」のように。工場主が探していたわけではなくKが探していたわけでもない。訴訟へのKの欲望ゆえに工場主にこの「噂話」を出現させ、またそこに出現した名がさらなる欲望を増殖させていく。Kの欲望が次々に関係者を接続させ増殖させていくのである。そしてそうすればするほどKの訴訟は限度を忘れ、結審は無限に先送りされていく。なぜそうなるのか。Kは訴訟というものを一つの国家の中だけで完結できるもののように考えているからである。しかしヘーゲルはいう。或る国家があるのは他の国家があり、それらすべては有機的繋がりを持つ限りで始めて成立すると。「《対内》主権」と「《対外》主権」とを区別している箇所にこうある。

「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)

全体は有機的組織性として存在する。今の世界がそうであるように<流動する力のネットワーク>として見なければならない。ゆえにフーコーがいうように権力の遍在性について語ることができる。

「権力は至るところにある。すべてを統轄するからではない、至るところから生じるからである。そして通常言われる権力とは、その恒常的かつ反覆的な、無気力かつ自己生産的な側面において、これらすべての可動性から描き出される全体的作用にすぎず、これら可動性の一つ一つに支えを見いだし、そこから翻ってそれらを固定しようとはかる連鎖にすぎないのだ。おそらく名目論の立場を取らねばなるまい。権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.120~121」新潮社 一九八六年)

アルトーが逃れ出ようとした「有機体」とはこのように、絶対的中心を持たず、むしろ逆に至るところに充満する権力機構のことだ。だから二十一世紀の世界的ネットワークからの逃走は絶望的であると同時に数値化されない部分をいつも増殖させていく以上、いついかなる時でも可能である。Kに見えていないのは<娼婦・女中・姉妹>そして<子供>の系列として実在する<他者>の<他者性>にほかならない。例えば「手の指に水掻きのある」レーニ。彼女はただ単にお茶を運んでくるだけでフルト弁護士の退屈な演説からいったんKを解放してやるのではない。Kだけでなくフルト弁護士もお茶を飲んで力を回復する。そしてまた退屈極まりない演説で訴訟を有利にさせる条件を手に入れる見込みが果てしなく遠いことをKに理解させる。レーニはKを力づけようとしてお茶を入れるわけでは全然ない。逆にフルト弁護士に再び力を回復させ無意味に等しい力説を反復させ、そのためうんざりしきったKがとうとうフルト弁護士を手放す方向へ扉を開くのだ。

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