Kが本当に潔白であればあるほど、にもかかわらず逮捕されたからには完全な無罪判決を勝ち取ることはもはや絶対にないと言ったティトレリ。しかしそこで完全な無罪判決は除外するにしてもティトレリの立場から助言でき、なおかつ手に入れられる可能な限り有利な態度はもはやまるでなくなったというわけでもないという。それは裁判の仕方についての二つの戦術。「見せかけの無罪と引延ばし」とである。Kはすでに二つの戦術を<欲望>している。この箇所で<Kは露骨に欲望である>。
さてティトレリはまず「見せかけの無罪」について述べる。説明の中に「上からの命令」とあるが「上」とは何か。一向に判然としないまま説明は続く。さらに「裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされている」。しかし「真の無罪」は恐ろしく古いエピソードであってもはや「神話」として語り継がれているばかりであり「神話」を根拠化することは考えられもしない馬鹿げた態度であるとされている。「真の無罪」の場合「訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます」。「神話」の次元へ編入されていて今やあり得ない事態を告げたティトレリはおもむろに「見せかけの無罪」について語り出す。
「『それは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.220~221」新潮文庫 一九九二年)
次の説明の前半は訴訟に関する書類の膨大さを物語るが、それらは裁判機構の中でぐるぐる回転を繰り返しているばかりでなるほど無罪判決の<見せかけ>を呈しはするものの裁判所には<忘却>というものはまるで存在しないという。だから被告はいずれ「新しい逮捕」に直面することは避けられない。従ってようやく手に入れたと思われた「自由」はほんの一時的な幻想でしかないということになる。
「『書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起っていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧(かんぺき)である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺(だま)されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日ーーーだれにも予期できませんーーーどこかの裁判官が書類をいつもより注意深く手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.221」新潮文庫 一九九二年)
裁判所は<忘却>を知らない。しかしドゥルーズ=ガタリは絶対的記憶装置に対して「反-記憶」としての<生成変化>という態度を逃走線として上げている。
「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.280」河出文庫 二〇一〇年)
反時代的な<忘却>。実をいうと、ドゥルーズ=ガタリはこの概念をニーチェから借りてきた。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫 一九九三年)
創造とはどういうことか。それを言いたがっているわけだが、その上でドゥルーズ=ガタリはこう述べる。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならないからである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.285」河出文庫 二〇一〇年)
創造。例えば誰もが知っているモーツァルト「きらきら星」。<脱領土化>としての「活発な創造行為」の一例にほかならない。
「モーツァルトにあらわれる『ああママ、お話があるんだけどーーー』〔キラキラ星変奏曲の冒頭〕、モーツァルトのリトルネロ。ハ調の主題に十二の変奏が続く。主題を構成する一つ一つの音が二重化しているだけでなく、主題自体が内側から二重化をとげている。音楽は射線による、あるいは横断線による特異な処理をリトルネロにほどこし、リトルネロをその領土性から引き離す。音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ活発な創造の行為なのだ。リトルネロが本質的に領土的で、領土化や再領土化をおこなうものだとしたら、音楽のほうはリトルネロを脱領土化した内容に変え、脱領土化した表現の形式にこれを対応させるのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.293」河出文庫 二〇一〇年)
さらに重要なのは、音楽というのは本来的に《決定不可能性》として出現するという事情である。
「音楽をとらえる女性への生成変化や子供への生成変化は、声の機械状編成という問題にあらわれる。声を機械状にするということは、最初の音楽的操作なのである。この問題が西洋音楽ではどのように解決されたかということ、イギリスとイタリアにあらわれた二通りの解決策はどのようなものだったかということは、すでに人の知るところだ。一つは、カウンターテナーの裏声である。つまり『本来の声より高く』歌う、あるいは横隔膜を支えにすることも、気管支を通り抜けることもなく、副鼻腔の空洞と喉頭と口蓋とで声を響かせる歌い方、もう一つはカストラートの、腹から絞り出した声。つまり知覚しえぬもの、触知しえぬもの、漂うものに肉感的実体を与えたかのような、『強さと音量にまさる、けだるい』歌い方。ドミニク・フェルナンデスは、この主題について見事な書物を著し、幸いにも音楽と去勢の関連をめぐる精神分析的考察をひかえつつ、声の機械装置という音楽の問題は必然的に大規模な二項機械の廃止を、つまりあらゆる声を『男性か女性』のいずれかに振り分けるモル状形成の廃止をもたらすということを明らかにした。つまり音楽にとっては、男《か》女かという問いはありえないのである。しかし、フェルナンデスが援用しているアンドロギュノスの神話で十分かということになると、それは疑わしい。問われるべきは神話ではなく、現実の生成変化だからである。声そのものが女性への生成変化や子供への生成変化に達するべきだからである。そしてこれこそまさに音楽の驚異的な内容なのだ。とすれば、フェルナンデスも指摘しているとおり、女性を模倣すべきでも、子供を模倣すべきでもないのだ。たとえ歌うのが子供だとしても、それを模倣すべきではないのだ。音楽の声そのものが子供に<なり>、同時に子供は音に、純然たる音に<なる>。そんなことのできる子供はいたためしがない。もし子供にそれができたら、それはまた子供以外のものに<なる>ことによって、不思議な、この世のものとは思えぬ官能的な世界に住まう子供に<なる>ことによって達成されると考えるべきだろう。要するに、脱領土化は二重の運動なのである。子供への生成変化の中で声が脱領土化するだけでなく、声が子供に<なる>と同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげるのだ。『子供に羽が生えた』とシューマンは言う。音楽をとらえる動物への生成変化にも、やはり同様のジグザグ運動を見出すことができる。モーツァルトの音楽が、いかに馬への生成変化や鳥への生成変化に貫かれているか、マルセル・モレが明らかにしている。しかし馬や鳥の『真似』をして喜ぶような音楽家はいない。音のブロックが動物への生成変化をその内容とするには、同時に動物も音を通じて動物以外のものに、夜や死や悦びなど、何か絶対的なものに<なる>必要がある。絶対的なものとは決して一般性ではなく、また単一性でもなく、『これこそ死』とか『あれこそ夜』という<此性>だ。音楽はその内容として動物へのは生成変化を選びとる。しかしその場合、たとえば馬なら馬は、天界や地獄から響いてくる蹄の音さながらの、小刻みなティンパニーの軽やかな音をみずからの表現とするのである。そして鳥はグルッペティ〔回音〕やアッポジャトゥーラ〔前打音〕やスタッカートに表現を見出し、それが鳥を、天がける魂に変える。モーツァルトの作品で斜線を形成するのはアクセントである。アクセントを追いかけ、これを見守っていなければ、比較的貧しい<点のシステム>に後戻りすることになるだろう。音楽的人間は鳥の中で脱領土化する。そのとき鳥それ自体も脱領土化し、『変容』をとげた鳥となる。自分とともに生成変化する者と同時に生成変化をとげる天上の鳥。エイハブ船長はモーヴィ・ディックとともに抗しがたい<鯨への生成変化>に巻き込まれる。しかしそれと同時に、モーヴィ・ディックなる動物もまた、耐えがたいほど純粋な白さに、まばゆいばかりに白い城壁に、銀の糸になって伸び、少女の『ように』しなやかになり、鞭のようによじれ、さらには城塞のように聳えなければならない。文学も、ときとして絵画に追いつき、さらには音楽にさえ追いつくことがありうるのだろうか?そして絵画が音楽に追いつくこともあるのだろうか?」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.300~302」河出文庫 二〇一〇年)
そのような<変容への欲望>とKの<訴訟への欲望/欲望としての訴訟>とは似ているようで違っている。Kは失敗しないわけではないが失敗するわけでもない。というより、どちらとも言えない《位置決定不可能性》として生きていくことになる。
「『それではしかし』、とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りして言った、『第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?』。『その点については』、と画家は答えた、『はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう?そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません』。『しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?』、とKは言って、何か拒むように頭をまわした。『もちろんです』、と画家は言った、『第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです』。Kは黙っていた。『見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね』、と画家は言った、『もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?』Kはうなずいた」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.222~223」新潮文庫 一九九二年)
ティトレリのいうように「第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕が」続く。「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しは必然的に生じてくる。そこでティトレリはKの焦りを見越したかのようにいう。「あなたには引延しのほうが向いてるかもしれない」。
「城」の中に出てきた一節と同じことだ。延々と引き延ばされるばかりで決してやって来ない「決済」。いつまでも続く「未決状態」。Kは音楽になれない人間であり、歌うことができない人間であり、要するにヘーゲル弁証法的に振る舞うことしか知らない。どこにでもいるごく普通の市民の一人である。カフカがKにヘーゲル的身振り仕草を与えるのは当り前であってほかに有効な方法など考えられもしない。しかしそんなKを描くことでカフカは読者に向けて或る種の<教え>を未来に与えることになった。ところがカフカ自身にしても自分の小説がここまでそっくり瓜二つな未来の到来を予告しているとは思いも寄らなかったに違いない。一方の「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しはフーコーが論じた監視社会に対応し、もう一方の「引延し」は管理社会に対応する。ティトレリはこれからそれについて話し始めるところだ。その後、アトリエの澱んだ空気以上に澱んだ嫌な空気がKに近づいてくる。あたかもホラーのようだ。しかしホラーではない。さらにSFとはもっと違う。むしろKは実にリアルな光景を目にすることになる。
BGM1
BGM2
BGM3
さてティトレリはまず「見せかけの無罪」について述べる。説明の中に「上からの命令」とあるが「上」とは何か。一向に判然としないまま説明は続く。さらに「裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされている」。しかし「真の無罪」は恐ろしく古いエピソードであってもはや「神話」として語り継がれているばかりであり「神話」を根拠化することは考えられもしない馬鹿げた態度であるとされている。「真の無罪」の場合「訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます」。「神話」の次元へ編入されていて今やあり得ない事態を告げたティトレリはおもむろに「見せかけの無罪」について語り出す。
「『それは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.220~221」新潮文庫 一九九二年)
次の説明の前半は訴訟に関する書類の膨大さを物語るが、それらは裁判機構の中でぐるぐる回転を繰り返しているばかりでなるほど無罪判決の<見せかけ>を呈しはするものの裁判所には<忘却>というものはまるで存在しないという。だから被告はいずれ「新しい逮捕」に直面することは避けられない。従ってようやく手に入れたと思われた「自由」はほんの一時的な幻想でしかないということになる。
「『書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起っていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧(かんぺき)である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺(だま)されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日ーーーだれにも予期できませんーーーどこかの裁判官が書類をいつもより注意深く手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.221」新潮文庫 一九九二年)
裁判所は<忘却>を知らない。しかしドゥルーズ=ガタリは絶対的記憶装置に対して「反-記憶」としての<生成変化>という態度を逃走線として上げている。
「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.280」河出文庫 二〇一〇年)
反時代的な<忘却>。実をいうと、ドゥルーズ=ガタリはこの概念をニーチェから借りてきた。
「非歴史的なものはものを被う雰囲気に似ており、この雰囲気のうちでのみ生はみずからを産み、したがってそれが否定されると同時に生も再び消え失せる。人間が考え、篤(とく)と考え、比較し、分離し、結合して、あの非歴史的要素を制限することによって初めて、あの取り巻く蒸気の雲の内部に明るく閃(ひら)めく一条の光が発生することによって初めて、ーーーしたがって、過ぎ去ったものを生のために使用し、また出来事をもとにして歴史を作成する力によって初めて、人間は人間となる。これに間違いない、しかし歴史が過剰になると人間は再び人間であることをやめるのであり、人間は非歴史的なもののあの被いがなければ、開始することを決してしなかったであろうし、また現に開始することを敢えてしないであろう。人間が前もってあの蒸気層に入り込んでおらずに、なすことの可能な行動がどこに見いだされるであろうか?」(ニーチェ「反時代的考察・第二篇・P.127~128」ちくま学芸文庫 一九九三年)
創造とはどういうことか。それを言いたがっているわけだが、その上でドゥルーズ=ガタリはこう述べる。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならないからである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.285」河出文庫 二〇一〇年)
創造。例えば誰もが知っているモーツァルト「きらきら星」。<脱領土化>としての「活発な創造行為」の一例にほかならない。
「モーツァルトにあらわれる『ああママ、お話があるんだけどーーー』〔キラキラ星変奏曲の冒頭〕、モーツァルトのリトルネロ。ハ調の主題に十二の変奏が続く。主題を構成する一つ一つの音が二重化しているだけでなく、主題自体が内側から二重化をとげている。音楽は射線による、あるいは横断線による特異な処理をリトルネロにほどこし、リトルネロをその領土性から引き離す。音楽とは、リトルネロを脱領土化することによって成り立つ活発な創造の行為なのだ。リトルネロが本質的に領土的で、領土化や再領土化をおこなうものだとしたら、音楽のほうはリトルネロを脱領土化した内容に変え、脱領土化した表現の形式にこれを対応させるのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.293」河出文庫 二〇一〇年)
さらに重要なのは、音楽というのは本来的に《決定不可能性》として出現するという事情である。
「音楽をとらえる女性への生成変化や子供への生成変化は、声の機械状編成という問題にあらわれる。声を機械状にするということは、最初の音楽的操作なのである。この問題が西洋音楽ではどのように解決されたかということ、イギリスとイタリアにあらわれた二通りの解決策はどのようなものだったかということは、すでに人の知るところだ。一つは、カウンターテナーの裏声である。つまり『本来の声より高く』歌う、あるいは横隔膜を支えにすることも、気管支を通り抜けることもなく、副鼻腔の空洞と喉頭と口蓋とで声を響かせる歌い方、もう一つはカストラートの、腹から絞り出した声。つまり知覚しえぬもの、触知しえぬもの、漂うものに肉感的実体を与えたかのような、『強さと音量にまさる、けだるい』歌い方。ドミニク・フェルナンデスは、この主題について見事な書物を著し、幸いにも音楽と去勢の関連をめぐる精神分析的考察をひかえつつ、声の機械装置という音楽の問題は必然的に大規模な二項機械の廃止を、つまりあらゆる声を『男性か女性』のいずれかに振り分けるモル状形成の廃止をもたらすということを明らかにした。つまり音楽にとっては、男《か》女かという問いはありえないのである。しかし、フェルナンデスが援用しているアンドロギュノスの神話で十分かということになると、それは疑わしい。問われるべきは神話ではなく、現実の生成変化だからである。声そのものが女性への生成変化や子供への生成変化に達するべきだからである。そしてこれこそまさに音楽の驚異的な内容なのだ。とすれば、フェルナンデスも指摘しているとおり、女性を模倣すべきでも、子供を模倣すべきでもないのだ。たとえ歌うのが子供だとしても、それを模倣すべきではないのだ。音楽の声そのものが子供に<なり>、同時に子供は音に、純然たる音に<なる>。そんなことのできる子供はいたためしがない。もし子供にそれができたら、それはまた子供以外のものに<なる>ことによって、不思議な、この世のものとは思えぬ官能的な世界に住まう子供に<なる>ことによって達成されると考えるべきだろう。要するに、脱領土化は二重の運動なのである。子供への生成変化の中で声が脱領土化するだけでなく、声が子供に<なる>と同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげるのだ。『子供に羽が生えた』とシューマンは言う。音楽をとらえる動物への生成変化にも、やはり同様のジグザグ運動を見出すことができる。モーツァルトの音楽が、いかに馬への生成変化や鳥への生成変化に貫かれているか、マルセル・モレが明らかにしている。しかし馬や鳥の『真似』をして喜ぶような音楽家はいない。音のブロックが動物への生成変化をその内容とするには、同時に動物も音を通じて動物以外のものに、夜や死や悦びなど、何か絶対的なものに<なる>必要がある。絶対的なものとは決して一般性ではなく、また単一性でもなく、『これこそ死』とか『あれこそ夜』という<此性>だ。音楽はその内容として動物へのは生成変化を選びとる。しかしその場合、たとえば馬なら馬は、天界や地獄から響いてくる蹄の音さながらの、小刻みなティンパニーの軽やかな音をみずからの表現とするのである。そして鳥はグルッペティ〔回音〕やアッポジャトゥーラ〔前打音〕やスタッカートに表現を見出し、それが鳥を、天がける魂に変える。モーツァルトの作品で斜線を形成するのはアクセントである。アクセントを追いかけ、これを見守っていなければ、比較的貧しい<点のシステム>に後戻りすることになるだろう。音楽的人間は鳥の中で脱領土化する。そのとき鳥それ自体も脱領土化し、『変容』をとげた鳥となる。自分とともに生成変化する者と同時に生成変化をとげる天上の鳥。エイハブ船長はモーヴィ・ディックとともに抗しがたい<鯨への生成変化>に巻き込まれる。しかしそれと同時に、モーヴィ・ディックなる動物もまた、耐えがたいほど純粋な白さに、まばゆいばかりに白い城壁に、銀の糸になって伸び、少女の『ように』しなやかになり、鞭のようによじれ、さらには城塞のように聳えなければならない。文学も、ときとして絵画に追いつき、さらには音楽にさえ追いつくことがありうるのだろうか?そして絵画が音楽に追いつくこともあるのだろうか?」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.300~302」河出文庫 二〇一〇年)
そのような<変容への欲望>とKの<訴訟への欲望/欲望としての訴訟>とは似ているようで違っている。Kは失敗しないわけではないが失敗するわけでもない。というより、どちらとも言えない《位置決定不可能性》として生きていくことになる。
「『それではしかし』、とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りして言った、『第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?』。『その点については』、と画家は答えた、『はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう?そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません』。『しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?』、とKは言って、何か拒むように頭をまわした。『もちろんです』、と画家は言った、『第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです』。Kは黙っていた。『見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね』、と画家は言った、『もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?』Kはうなずいた」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.222~223」新潮文庫 一九九二年)
ティトレリのいうように「第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕が」続く。「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しは必然的に生じてくる。そこでティトレリはKの焦りを見越したかのようにいう。「あなたには引延しのほうが向いてるかもしれない」。
「城」の中に出てきた一節と同じことだ。延々と引き延ばされるばかりで決してやって来ない「決済」。いつまでも続く「未決状態」。Kは音楽になれない人間であり、歌うことができない人間であり、要するにヘーゲル弁証法的に振る舞うことしか知らない。どこにでもいるごく普通の市民の一人である。カフカがKにヘーゲル的身振り仕草を与えるのは当り前であってほかに有効な方法など考えられもしない。しかしそんなKを描くことでカフカは読者に向けて或る種の<教え>を未来に与えることになった。ところがカフカ自身にしても自分の小説がここまでそっくり瓜二つな未来の到来を予告しているとは思いも寄らなかったに違いない。一方の「無罪・逮捕・無罪・逮捕」の繰り返しはフーコーが論じた監視社会に対応し、もう一方の「引延し」は管理社会に対応する。ティトレリはこれからそれについて話し始めるところだ。その後、アトリエの澱んだ空気以上に澱んだ嫌な空気がKに近づいてくる。あたかもホラーのようだ。しかしホラーではない。さらにSFとはもっと違う。むしろKは実にリアルな光景を目にすることになる。
BGM1
BGM2
BGM3