今朝のしんぶん赤旗に『政府が触れぬ「明治の精神」』と題した、コラム欄「朝の風」があった。
管理人の「東京の戦争遺跡を歩く会・明治150年シリーズ」もそれなりの意義があったと自己分析している。
>文字起こし<
明治150年を祝う政府式典は、「百年」の時に比べれば規模も縮小され、比較的簡素であった。天皇も呼ばれなかった。だが、政府は2年前から明治150年を綿密に準備し、地方自治体には、地域創生の一層として財政措置もつけて、1年にわたって、イベントをおこなってきた。下からのキャンペーンを狙ったものである。
明治150年に取り組む政府の「基本的な考え方」は、戦前の天皇主権と戦後の国民主権との根本的な違いを無視して、「明治の精神に学び、更に飛躍する国」を目指すということであった。「明治の精神」は「近代化の歩み」だけに矯小化され、しかもその過程で行われた台湾や朝鮮の侵略、日清・日露の戦争といった負の側面にはまったく触れられていない。
現政権の思惑の彼岸で「明治の精神」を語った人に、夏目漱石や保田輿重郎がいる。個人の自立とその葛藤をみつめた漱石は、『こころ』のなかで、「明治の精神が天皇に始まって天皇に終った」と言う。日本人の情緒を偏愛した日本ロマン派の保田も、「明治の精神」とは「王政復古」「尊王撰夷」の精神であると言う。2人とも、天皇に結びつけて「明治の精神」を考えている。まっとうな指摘である。それをぬきに、「明治の精神」を語ることはできないはずである。(梟)
(了)
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