Facebookに自民党参議院議員佐藤正久氏についての投稿がありました。
そこには、「人権、人権、人権とバカなんじゃないかと。もっと大きなものを護るために命を捨てろと命令できる憲法改正が必要」と書かれていました。
靖國神社社報「靖國」5月号第802号に、元陸上自衛隊陸将福山隆氏が「元自衛官の靖國神社についての感懐」と題した寄稿がありました。佐藤正久議員の意見は至極もっともだと言われていますので、一部を転載します。
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心の拠り所がない自衛隊員
(略)
自衛隊員にとって最大の問題は「死を克服すること」である。私の場合、宗教に関する本を多読した。また、富士学校の幹部初級課程時代には座禅を学んだ。当時、富士学校には陸士出身の青井秀1佐がおられ、週末に座禅の指導をしてくれた。青井1佐は、「私は、少尉の時に連隊旗手を命じられた際、不安でたまらなかった。連隊旗手を務めているときに不始末を仕出かしたらどうしよ う、と思えば思うほどが募った。 そこで、藁にも鎚る思いで始めたのが座禅だ」と言われた。その言葉は、私の「死に向き合う不安」にピタリと通じるものがあった。
自衛隊員たる私個人が死を深刻に考えるように、国防の任務に当たる自衛隊員は多かれ少なかれ死を意識せざるを得ない。戦闘力はさまざまな要素から構成されているが「人」という要素が最も重要である。死をも恐れない人・軍隊は強い。装備は国防予算を増やせば済むが、兵士の「心」は国防予算では解決できない。
各国軍も兵士の心の拠り所を作るのに腐心している。米国の場合は、従軍聖職者を置いている。従軍聖職者は宗教に応じて、プロテスタントの場合は従軍牧師、正教会やカトリック教会の場合 は従軍神父. 司祭と呼び分けられる場合もある。仏教の場合は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の米国仏教団が米軍で唯一の仏教従軍組織に認定されている。
かかる観点から見て、国防の大任に挺身する自衛隊員の場合は、その精神的な拠り所が欠けているのがわかる。自衛隊は昭和29年の創設以来、戦死者を出していない。訓練中の事故などで死亡した隊員の追悼の場としては、東京・市谷の防衛省内に殉職者慰霊碑がある。
自衛隊員は任官するに際し「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえます」と宣誓する。だが憲法で認知されず、心の拠り所となるものもない中で、宣誓通りに任務に励めというのは余りにも酷ではなかろうか。
元自衛官の佐藤正久参院議員は、靖國神社の社報への寄稿や自身のブログで「(殉職者慰霊碑では)広く国民が慰霊・顕彰することは困難。靖國神社に祭られるかどうか議論をしておかなければ」といつた考えを表明している。米中覇権争いが激 化するなどの国際情勢に鑑みれば、佐藤議員の意見は至極もつともなことである。
この問題を憲法9条問題と同じように先送りするのではなく、今こそ、待つたなしに、国民が英知を絞つて解決すべきだと思う。
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福山氏の文中にある防衛省内・メモリアルゾーンの「殉職者慰霊碑」
その隣にある「阿南惟幾荼毘の碑」
陸軍士官学校時代の「雄叫神社」(御神体はない。)
(了)