新宿区は東京都内で有数の総合病院が多い区ですが、そのなかで次の4病院がかって陸軍関係の敷地だったというのが「軍都」新宿らしい特異な姿です。
国立国際医療センターは陸軍第一病院でした。そして百人町の社会保険中央病院は陸軍科学研究所、信濃町の慶応大学付属病院は陸軍輜重兵大隊、河田町の東京女子医大付属病院は陸軍経理学校と各々の敷地でした。
【画像は慶応病院駐車場入り口と創価学会民音文化会館との地境に残る陸軍省所轄地の境界石】
現在、女子医大が創立百周年事業ということで経理学校跡地に新病棟を建設中ですので今回はこの周辺をご案内しましょう。陸軍経理学校は当初陸軍経理官の養成所として麹町区平河町に開設され、1886年(明治19)に市谷河田町の尾張徳川中屋敷跡に開校しました。陸軍の予算決算の経理と兵舎などの営繕担当の将校と軍吏を養成しました。
東隣に私立成城学校がありますが、同校は84年築地に文武講習館として創立され、86年市谷加賀町に「本校は陸軍武学生徒入学ノ予備学科ヲ教授スル所トス」と陸軍士官学校の予備校を目的に設立され、91年、陸軍士官学校練兵場の一部を市谷薬王寺町に住んでいた陸軍大将児玉源太郎が政府から無償で土地を払い下げをさせて現在の校地となりました。
【画像は経理学校跡に残る煉瓦塀と陸軍省境界石】
因みに百人町にある海城学園は85年海軍兵医学校の予備校として創立し、1927年に日比谷から現在地に移転したものです。
成城学校は日清戦争後の98年、清国から陸軍士官学校を目指した留学生が入学するようになりました。一時、陸軍は現在の東京韓国学園の敷地となっているところに振武学校をつくって士官学校志望者を移したことがありました。蒋介石はこの振武学校を卒業した後、孫文と出会い清国の辛亥革命で活躍したのです。孫文と新宿の不思議な縁を次回にご紹介します。