葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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ペンと剣の旗の下 其のⅤ

2008年06月20日 | 歴史探訪その他

発行者 昭和23年24年開成学園卒業生の記録
    “ペンと剣の旗の下”刊行委員会
発行2007年11月11日(非売品)
    
“ペンと剣の旗の下”
「第5章 学徒勤労動員」
  東京第一陸軍造兵廠

其のⅤ

わが半生記序章 H・Y

 開成中学時代

 昭和十八年四月、私は私立東京開成中学校に入学した。開成の校章は、ペンが剣の上に交わるデザインであって、有名な格言「ペンは剣よりも強し」を図案化したもので、学園の校風を象徴している。私が開成と巡り合った事は、決して偶然ではない。当時の開成中学は、二五〇名の募集枠に一、二五〇名が応募する難関であった。また、入学後も学期毎の成績順で席次が決まるというシビアなものであった。席次は成績上位者から順に後列から前列へ向うというものであった。入学当初は後列に座っていた私は、次第に前列に移動するという屈辱を味わった。

 中学受験に際しては、養父の希望もあり芝(現港区)増上寺の山内にある芝中学を受験する事も考えた。「芝中学を卒業し、増上寺で修行する」というコースが養父の念頭にあったようだが、それは入試前の下見の段階で葬り去られた。養父と私が芝中学で下見した際、芝中の生徒が増上寺の裏山で軍事教練を行っていた。その際、教官に殴られた生徒が斜面をゴロゴロと転がり落ちるのを見て、私は同校の受験に気が向かない旨養父に伝えた所、養父も沈黙したままだった。当時、芝、開成と共に御三家と言われた麻布中学も候補には挙がったものの、通学距離の短い開成中学の受験に結局は落ち着いた。

 開成中学で、私はボート部に入部し、K・J、S・Y、S・A、T・K、T・K、D・Hの同級生は勿論、先輩、後輩等生涯の友を得た。皆の息が会わなければ良い成績の残せないボート競技は、互いを思いやるチームワーク醸成により一体感が生まれる。練習は、一橋大学の艇を借りるなどして、隅田川で行われていたが、練習中に漂流する溺死体を発見した事も、ボート部時代の思い出の一つである。

 当時の開成中学は、反骨精神溢れる気質があり、学徒動員でのストライキも行われた。私は学徒動員先である王子の陸軍東京第一造兵廠で、弾丸、薬莢に詰める火薬の分量の天秤検査を担当した。それぞれに詰める火薬量の調整は、少な過ぎれば発射できず、多すぎれば暴発するため、大変繊細な作業であった。

 空襲で工場の機械が一部破壊されたときのこと、発送に遅れが出てはいけないと、工場長が火薬量検査の工程を省略して弾丸を発送しようとした。これを見た私達生徒は、「このまま出荷すれば、前線の兵隊が死んでしまう。」と抗議し、これが聞き入れられぬと見るや、ストライキを決行。製造ラインは三日間停止した。ストライキに至った理由が理由だけに、この一件は単なる怠業として処理されず、エ場長は更迭きれ、現役曹長が新任の工場長に着任することで落着した。
(つづく)

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