発行者 昭和23年24年開成学園卒業生の記録
“ペンと剣の旗の下”刊行委員会
発行2007年11月11日(非売品)
“ペンと剣の旗の下”
「第5章 学徒勤労動員」
東京第一陸軍造兵廠
其のⅣ
転校-学徒動員-空襲のこと Y・Y
(略)
十一月二十四日、中島飛行機が爆撃されて以来、東京は連日の様に空襲を受け、夜も空襲警報は鳴りっばなしで寝ている所を起こされるのが苦痛だった。最初は庭の防空壕にも入っていたが、段々慣れてくると起き上がるのが面倒で、布団を被って寝ていた。B29から無数の火のついた焼夷弾がキラキラ輝いて落ちてくる光景が忘れられない。何時の空襲だったか、家のすぐ後ろに爆弾が落ちて家が大きく揺れ、その時は生きた心地がしなかった。
三月十日の下町大空襲の時は、二階から遠くの空が真っ赤になって居るのが見え凄まじかった。翌日出勤すると、小岩から通っているT君が、出勤途中、黒焦げの死体があちこちに転がっていて吐き気を催したと言う話を聞いた。
造兵廠も攻撃の標的となつて、空襲のたびに防空壕へ避難したものだ。そのうちに、我々の仕事は、本土決戦に備えての日本刀作りの作業を手伝うことになる。我々は日本刀の鞘作りの仕事だったが、工員が真っ赤に燃える炉の側で、鍛冶屋の様に鋼を叩いて刀を作るのを眺めて、兵器工場がこんなことをやる事態になったのかと、複雑な思いがしたものだった。
その頃には、造兵廠も空襲で大きな被害を受け、帰りの電車も止まり、家まで歩いて帰った事があった。我々の仕事場も焼け、焼け跡の広場で作業をしていたように思うが、広場に落ちていた焼夷弾の不発弾から油脂の塊を取り出して誰かが火をつけたら、大きな火の手があがり、改めてその威力を知らされた。
四月十三日夜、山手地区に大空襲があり、わが家から五十米ぐらいの所まで火の手が迫ってきた。何とかしなくてはと水を入れたバケツを運んだが消防隊ですら手に負えぬ状況の中では、為すすべもなく茫然として見ているしかなかった。この時には我が家は焼けずに助かったが、結局はその後、五月二十五日の大空襲で焼けてしまった。
その頃になると、級友も疎開する者が増え、我が家も父の実家がある栃木に疎開する事になり、五月上旬東京を離れた。
考えてみると、東京に出てきた日に最初の空襲に会い、それから半年余、空襲の連続の中でよく生き延びたものだと思う。
級友の中には戦災で亡くなった者も居り、又私よりもっと恐ろしい経験をされた者もいるはずだ。そして戦争の記録本などで、あの大空襲の写真を見るにつけ、改めて我々の子孫にはこのような経験をさせたくないと思うし、今の若い人たちにもつとこの当時のことを知って貰い、戦争の怖さを感じ取って欲しいと思う。
我々も喜寿という年齢を迎え、これから先人に迷惑を掛けたくないという思いで、自らの健康維持に努める傍ら、年々戦争休験者が減少してゆく中で、現在の溢れる物、そしてTVなどマスコミによる俗悪な番組の中に浸かって育っている若い人逢に、戦争体験や戦後の貧しい食糧事情などを語り、節度ある生活態度を教えてゆく事が務めではないだろうかと思うこの頃である。