今から70年前の2月7日から26日にかけて、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東條英機の重臣たちが個別に戦局に関する所信を昭和天皇に申し述べました。そのなかで2月14日近衛のみはとくに上奏文を提出しました。いわゆる「近衛上奏文」と言われているものです。
管理人は靖国神社ガイドの時、遊就館展示室15「大東亜戦争⑤」のパネル説明文を解説しながら「元総理大臣だった近衛文麿は、天皇陛下様この戦争は負けてしまいます。そうなれば国体護持はできませんと文書を添えて進言をしました。もし、昭和天皇は終戦への工作を始めていれば、3月の東京大空襲、6月の沖縄戦、8月の広島・長崎の原爆投下も避けられたはずです。天皇の戦争責任は大変重いと思います。」と語ってきました。
これまでの今上天皇や皇太子浩宮の記者会見等は、昭和天皇と戦争についての歴史を充分学んだ上で、政府と国民へのメッセージであると管理人は考察しています。
『本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。』
「今上天皇新年の感想」
『我が国は,戦争の惨禍を経て,戦後,日本国憲法を基礎として築き上げられ,平和と繁栄を享受しています。』
「皇太子浩宮55歳誕生日にあたっての記者会見」
青木書店刊・江口圭一著「十五年戦争小史」から232ページ【ヤルタ協定 近衛上奏文】抜粋します。
『連合国側が対日戦終結に関する重大な決定をおこなったのと時を同じくして、日本側でも戦争終結に関する重大な提言がなされた。マリアナ失陥につづくフィリピン戦の敗退に昭和天皇や宮中グループは不安と不満をつのらせた。その結果、二月七日から二六日にかけて、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東条英機が個別に戦局に関する所信を天皇に申し述べた。そのなかで二月一四日近衛のみはとくに上奏文を用意し、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」という断定のもとに、「敗戦は我が国体の畷瑳(かきん)たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず……随て敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に御座候」と述べ、満州事変以来戦争を推進してきた軍部内の「革新運動」の一味を「共産分子」ととらえたうえ、彼らを「一掃」して、「速に戦争終結の方途を講ずべき」であると主張した。
かつて青年時代に英米本位の世界支配秩序の打破を説き、首相としてアジアモンロー主義的な膨張政篇を推進してきた近衛は、いまやその膨張政策の完全な破綻と大日本帝国の全面的崩壊の危機に直面して、宮中グループと軍部との相互依存的な権力分有状況を清算し、天皇の聖断のもとに、軍部排除=終戦=対英米協調への回帰という大転換を断行することによって、「国体護持」すなわち天皇制の核心である天皇の地位・権能の保全と安泰を確保しょうとした。これはその後の国体護持のための終戦工作の基本構想を示すものであった。
しかし昭和天皇は「梅津〔美治郎参謀総長〕及び海軍は、今度は台湾に敵を誘導し得ればたたき得ると言って居るし、その上で外交手段に訴へてもいいと思ふ」と述べ、「事態を夫れ程悲観遊ばされ居らぬ様」であった。このため近衛上奏文は棚上げとされたが、アジア太平洋戦争で日本国民がこうむった惨禍の大半が四五年三月以降に生じていることからいって、天皇のこの選択はきわめて重大な意味をもっていた。』
【傍線は管理人】
書棚にある昭和8年発刊「輝く陸軍寫眞帖」から「陸軍統一覽圖」を掲載します。
大日本帝国憲法
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
と定められていた「大元帥閣下」を理解されると思います。
管理人は靖国神社ガイドの時、遊就館展示室15「大東亜戦争⑤」のパネル説明文を解説しながら「元総理大臣だった近衛文麿は、天皇陛下様この戦争は負けてしまいます。そうなれば国体護持はできませんと文書を添えて進言をしました。もし、昭和天皇は終戦への工作を始めていれば、3月の東京大空襲、6月の沖縄戦、8月の広島・長崎の原爆投下も避けられたはずです。天皇の戦争責任は大変重いと思います。」と語ってきました。
これまでの今上天皇や皇太子浩宮の記者会見等は、昭和天皇と戦争についての歴史を充分学んだ上で、政府と国民へのメッセージであると管理人は考察しています。
『本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。』
「今上天皇新年の感想」
『我が国は,戦争の惨禍を経て,戦後,日本国憲法を基礎として築き上げられ,平和と繁栄を享受しています。』
「皇太子浩宮55歳誕生日にあたっての記者会見」
青木書店刊・江口圭一著「十五年戦争小史」から232ページ【ヤルタ協定 近衛上奏文】抜粋します。
『連合国側が対日戦終結に関する重大な決定をおこなったのと時を同じくして、日本側でも戦争終結に関する重大な提言がなされた。マリアナ失陥につづくフィリピン戦の敗退に昭和天皇や宮中グループは不安と不満をつのらせた。その結果、二月七日から二六日にかけて、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東条英機が個別に戦局に関する所信を天皇に申し述べた。そのなかで二月一四日近衛のみはとくに上奏文を用意し、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」という断定のもとに、「敗戦は我が国体の畷瑳(かきん)たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず……随て敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に御座候」と述べ、満州事変以来戦争を推進してきた軍部内の「革新運動」の一味を「共産分子」ととらえたうえ、彼らを「一掃」して、「速に戦争終結の方途を講ずべき」であると主張した。
かつて青年時代に英米本位の世界支配秩序の打破を説き、首相としてアジアモンロー主義的な膨張政篇を推進してきた近衛は、いまやその膨張政策の完全な破綻と大日本帝国の全面的崩壊の危機に直面して、宮中グループと軍部との相互依存的な権力分有状況を清算し、天皇の聖断のもとに、軍部排除=終戦=対英米協調への回帰という大転換を断行することによって、「国体護持」すなわち天皇制の核心である天皇の地位・権能の保全と安泰を確保しょうとした。これはその後の国体護持のための終戦工作の基本構想を示すものであった。
しかし昭和天皇は「梅津〔美治郎参謀総長〕及び海軍は、今度は台湾に敵を誘導し得ればたたき得ると言って居るし、その上で外交手段に訴へてもいいと思ふ」と述べ、「事態を夫れ程悲観遊ばされ居らぬ様」であった。このため近衛上奏文は棚上げとされたが、アジア太平洋戦争で日本国民がこうむった惨禍の大半が四五年三月以降に生じていることからいって、天皇のこの選択はきわめて重大な意味をもっていた。』
【傍線は管理人】
書棚にある昭和8年発刊「輝く陸軍寫眞帖」から「陸軍統一覽圖」を掲載します。
大日本帝国憲法
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
と定められていた「大元帥閣下」を理解されると思います。