廃墟徒然草さんから下記のコメントを頂きました。
『造営局千駄ヶ谷線のお話をアップして頂き、ありがとうございます。
記事を拝見したあと、私も図書館で幾つかの明治・大正の地図を見てみましたが、千駄ヶ谷線が書かれたものは、確かにどれも、おっしゃる通り、信濃町の南側でぷっつり切れていました。
となるとYahoo!の地図は何を参照したのか。あったものを書き忘れる事はあっても、ないものを付け加えるとは、あまりない事だと思うので、不思議に思いました。』
【ないものを付け加えるとは、あまりない事だ】にヒントを得て、秋庭俊著「帝都東京・隠された地下網の秘密1・2」を読み直してみました。
現在の首都高速4号線は信濃町駅を過ぎてから地下に潜り、迎賓館の下を抜けてから上智大学運動場(真田堀を戦後埋め立てた)の土手に顔を出しながら食違い見附から地上に出て弁慶堀に沿った形で赤坂見附に出ます。
一方東京メトロ丸ノ内線は四ッ谷駅(地上駅)から地下に潜り4号線のラインに沿って赤坂見附駅に行きます。
日清戦争開戦に向けて陸軍中将川上操六は甲武鉄道の当初の計画だった市谷本村町(現防衛省)を通って新宿に行く路線を四ッ谷駅から紀州徳川家上屋敷跡だった赤坂離宮の地下にトンネル(現在の旧御所トンネル)を掘らせ青山軍用停車場を設置させましたが、軍用線が大正時代には造営局専用線として使用されます。
【画像は旧御所トンネル・総武線下り線路と青山軍用停車場】
当時、この専用線を延伸させ地下トンネルで皇居方面に走らせる計画をしていたのかも知れません。又は赤坂離宮の地下に天皇専用の停車場を作る計画があったかも知れませんね。(原宿駅には天皇専用停車場があります)
ですからトンネルの印があったのはそれらの証左になるかも知れません。