5日に那覇市内で行われた菅官房長官との会談で翁長沖縄県知事がサンフランシスコ講和条約に触れた部分【しんぶん赤旗より】
『私は、沖縄県が今日まで自ら基地を提供したことはないのだと強調したい。普天間基地も、それ以外の基地も、全部戦争がおわって、県民を収容所に入れて、そこにいないうちに、あるいはいるところでは「銃剣とブルドーザー」で土地を奪って基地に変わったのです。すべて強制接収されたわけです。
自ら奪って県民に苦しみを与えておいて、そして普天間基地は世界一危険だから、その危険性除去のために沖縄が負担しろ、おまえたち代替案は持っているのかと。日本の安全保障はどう考えているのか、こういった話をすること自体、日本の政治の堕落ではないのか。日本の国の品格から見ても、世界から見ても、おかしいのではないか。
一昨年、サンフランシスコ講和条約の発効でお祝いの式典がありましたが、沖縄にとっては本土から切り離された悲しい日です。万歳三唱を聞いていると、本当に沖縄に対する思いがないのではないかな、と率直に思います。
沖縄は27年間、日本の独立とひきかえに米国の軍政下に差し出されて、その間、日本は高度経済成長を謳歌しました。官房長官と私は同じ法政大学ですが、私は22歳まで、パスポートを持って、ドルで送金を受けていました。』
管理人は、10年位前に沖縄県平和フォーラムの方々を靖国神社と遊就館をガイドしたことがありました。
遊就館展示室【15 大東亜戦争5】説明パネルの最後にサンフランシスコ条約第一条の条文が書かれています。【日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。】管理人は「意味するところは戦争が終わったのは1945年8月15日ではなく、サ条約の効力が生じた日だと言いたいようです。」と説明をしていたらメンバーの一人から「長谷川さん!必ず第三条についても説明をしてくださいね。」と厳しく注文をつけられました。
以降は必ず「北緯29度以南がアメリカの占領地域として本土と切り離されました。復帰運動によって奄美大島などは日本国となりましたが、北緯27度以南の沖縄は取り残されてしまいました。“沖縄を返せ”の歌のように激しい祖国復帰運動によって1972年にやと復帰しましたが、米軍基地と核はそのままでした。」と第三条を説明をすることにしました。
翁長知事は、全ての沖縄県民の心情を日本政府にぶつけたものと考えています。
『私は、辺野古の新基地は絶対に建設することができないという確信を持っています。県民のパワーは、私の誇りと自信、祖先に対する思い、それから将来の子や孫に対する思いが全部重なって、私たち一人ひとりの生きざまになっています。こういう形で「粛々」と進められるのなら、建設するのは絶対に不可能になると思います。』
翁長知事の冒頭発言全文は「琉球新報」で見ることができます。
『私は、沖縄県が今日まで自ら基地を提供したことはないのだと強調したい。普天間基地も、それ以外の基地も、全部戦争がおわって、県民を収容所に入れて、そこにいないうちに、あるいはいるところでは「銃剣とブルドーザー」で土地を奪って基地に変わったのです。すべて強制接収されたわけです。
自ら奪って県民に苦しみを与えておいて、そして普天間基地は世界一危険だから、その危険性除去のために沖縄が負担しろ、おまえたち代替案は持っているのかと。日本の安全保障はどう考えているのか、こういった話をすること自体、日本の政治の堕落ではないのか。日本の国の品格から見ても、世界から見ても、おかしいのではないか。
一昨年、サンフランシスコ講和条約の発効でお祝いの式典がありましたが、沖縄にとっては本土から切り離された悲しい日です。万歳三唱を聞いていると、本当に沖縄に対する思いがないのではないかな、と率直に思います。
沖縄は27年間、日本の独立とひきかえに米国の軍政下に差し出されて、その間、日本は高度経済成長を謳歌しました。官房長官と私は同じ法政大学ですが、私は22歳まで、パスポートを持って、ドルで送金を受けていました。』
管理人は、10年位前に沖縄県平和フォーラムの方々を靖国神社と遊就館をガイドしたことがありました。
遊就館展示室【15 大東亜戦争5】説明パネルの最後にサンフランシスコ条約第一条の条文が書かれています。【日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。】管理人は「意味するところは戦争が終わったのは1945年8月15日ではなく、サ条約の効力が生じた日だと言いたいようです。」と説明をしていたらメンバーの一人から「長谷川さん!必ず第三条についても説明をしてくださいね。」と厳しく注文をつけられました。
以降は必ず「北緯29度以南がアメリカの占領地域として本土と切り離されました。復帰運動によって奄美大島などは日本国となりましたが、北緯27度以南の沖縄は取り残されてしまいました。“沖縄を返せ”の歌のように激しい祖国復帰運動によって1972年にやと復帰しましたが、米軍基地と核はそのままでした。」と第三条を説明をすることにしました。
翁長知事は、全ての沖縄県民の心情を日本政府にぶつけたものと考えています。
『私は、辺野古の新基地は絶対に建設することができないという確信を持っています。県民のパワーは、私の誇りと自信、祖先に対する思い、それから将来の子や孫に対する思いが全部重なって、私たち一人ひとりの生きざまになっています。こういう形で「粛々」と進められるのなら、建設するのは絶対に不可能になると思います。』
翁長知事の冒頭発言全文は「琉球新報」で見ることができます。