友人の川口重雄さんからのメールを転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
友人から届いた情報です。それでは。川口重雄拝
-----Original Message-----
wam「日本軍慰安所マップ」をウェブサイトに公開しました。(女たちの戦争と平和資料館wam)
2019年12月7日 TOP, お知らせ
以下の画像からもウェブサイトへ移動できます。
+ウェブサイト開設にあたってのごあいさつはこちら。
リニューアルした印刷版「日本軍慰安所マップ」(1部100円)も館内で販売しています。ぜひお求めください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
母は「おとうさんも慰安所にいったようだよ。入り口には白い暖簾がかかっていたらしいよ。」
テーブルの上にあった「海南島中国人慰安婦裁判」(ハイナンネット)のチラシを見ながら小さな声で言いました。
父は1937年第二次上海事変と1941年関東軍特種演習で応召しましたので、「中支」と「満州」の戦地で慰安所を利用したと思われます。
「戦地で慰安婦と遊んできた。」と妻に語る夫。これが教育勅語が言うところの「夫婦相和し」の時代を表しています。
番町書房刊:絵と詞・富田晃弘著「兵隊画集 戒衣は破れたり」(絶版)より
>文字起こし<(原文のママ)
リリアンで編んだカラー
12師団の司令部は城子溝にあった。傘下の満州第八九四部隊は大城子に駐屯していた。大城子の町中に慰安所があった。料理屋もあった。芸者(日本婦人)をあげるのは将校と上級下士官、俗にいうピイ屋で娼婦を抱くのは年期のあさい下士官と兵隊である。源氏名は「椿」とか「千鳥」とか「深雪」などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。
初年兵用のピイ屋には満人の婦がいた。ピイ屋もピイも極端な上下があった。アンペラ三枚の上で春をひさぐ崩れ果てた婦がかたことの日本語で初年兵に一本の煙草を無心するのはあわれであった。
ハタチにもならぬ満人のピイは日曜日ごとに通ってくる下士官のためにリリアンを編んでいた。野暮ったい襟布をはずしてリリアンでつくったカラーをつけるようにと彼女はわたした。それは愛の証なのか、婦の習慣なのか、それとも客のみんなに彼女はリリアンのカラーをわたしていたのか、わからなかった。
(了)