3日(火)に開催された「人骨の会」(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会:代表川村一之)の9月度例会に出席しました。
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川村一之代表から報告<人骨発見35周年企画(二)731部隊の関与を示唆した軍医学校関係者 アンケート調査の回答を検証する>
厚生労働省の「人骨の由来調査」(2001年6月14日)に記載されている旧陸軍軍医学校関係者への「郵送によるアンケート調査」の回答が開示された。旧陸軍軍医学校関係者293名へのアンケートが送付され、有効な回答は23通。
【人骨発見場所に関する記述】
5名から回答があり、概ね実験動物の飼育場にあたるとの回答。
【標本類の保管場所に関する記述】
歴史的な標本を保管している標本室以外に、(1)軍陣病理学教室5通、(2)八角講堂(臨床講堂)4通、(3)記念講堂1通、(4)防疫研究室の屋上3通と4か所に分かれている。
【標本の由来に関する記述】
戦場に遺棄された敵兵と旧満州で処刑された「馬賊・匪賊」の遺体とする二つのルートが明らかにされた。
アンケート調査の結果、明らかになったのは軍医学校が標本とした戦死体の収集には二つのルートがあった。
一つは軍陣病理学教室が中心となって特殊班を編成して直接収集し、軍医学校の卒業生にも収集を依頼して集めていたということ。収集時期は日中戦争が本格化した1937年以降。収集した標本類は病理学教室の周辺に保管しきれず、八角講堂(臨牀講堂)や記念講堂にも置いていた。そして収集した戦死体とは中国兵だった。
もう一つは731部隊のルート。防疫研究室の屋上で保管されていた遺体は病理学教室で収集した戦死体とは異質である。遺体は満洲事変当時の関東軍によって処刑された「馬賊、匪賊」であるという。
特に信憑性のある回答としては(NO・81)氏の「昭和●●年夏、ハルピンよりドラム缶のホルマリン漬の生首が届けられ、我々は使役でこの取り出しに参加しました。嘔吐をしたのを覚えています。」という体験談。同様の証言は他に2件ある。
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「ドラム缶にホルマリン漬の生首」と言う川村代表の報告を聞いて、直ぐに思い浮かべたのは2003年8月4日「黒龍江省チチハル市における毒ガス事故について」でした。外務省報告では「中国外交部よりわが国在中国大使館に対し、4日、黒龍江省チチハル市の建築現場において掘り出されたドラム缶から漏れ出た液体により、建築作業員等が頭痛・嘔吐等の症状をきたし、29人が入院し、そのうち3人が重体となるとの事故が発生し、同ドラム缶は日中の遺棄化学兵器であると判定されたとして、本件を適切に処理願いたい旨申入れがあった。わが国としては、この申入れを受け、現地の状況を確認するため、同8日に日本政府関係者および専門家を直ちに現地に派遣し、調査した結果、旧日本軍の遺棄化学兵器であることが判明した。」
戦前のチチハル市には、関東軍直轄部隊である「関東軍化学部」(第516部隊)と「関東軍化学部練習隊(第526部隊)がいました。
中国人被害者は、日本政府に対して国家賠償請求裁判をしました。詳しくは>チチハル毒ガス被害裁判<をご参照下さい。
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「人骨の会」は、10月27日「始まりの陸軍軍医学校としょうけい館」を開催します。
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「始まりの陸軍軍医学校としょうけい館」
>コース<JR飯田橋駅展望テラス(始まりの軍用鉄道)→東京逓信病院(陸軍軍医学校跡地・日本赤十字社発祥地)→ 与謝野鉄幹・晶子旧居跡碑→朝鮮総連本部→法政大学市ヶ谷総合体育館(陸軍所轄地境界石)→アーネスト・サトウ旧居跡碑→ 白百合学園中学高等学校(廣澤真臣遭難の地)→靖国神社内苑・外苑→ しょうけい館(戦傷病者史料館)→九段会館テラス
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「千代田区観光マップ」より、管理人が加筆
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(了)