福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

欠点だらけの朝比奈への愛

2013-11-22 21:58:07 | コーラス、オーケストラ
「朝比奈の方がずっと良かった。比較にならない」
という記事に関して、本日、以下のコメントを頂戴した。

「音楽を聴く耳をお持ちじゃないですよね。
お気の毒としかいいようがありません。

まぁ、頑張ってください。
ご活躍をお祈り申し上げます。」

甚だ無礼なモノの言いようなので、黙って削除しても良かったのだが、
同じように思われている方もいるかも知れないので、これを与えられた良い機会として私の考えを述べておこう。

まず何といっても、ティーレマンの指揮は良くなかった。
ティーレマンのアプローチが、緩急の極端なテンポ設定など、オールドファッションだったからではない。
フルトヴェングラー流だろうが、クナッパーツブッシュ流だろうが、音楽が良ければ、どうでも良い。
指揮に限らず、すべての器楽、声楽を究めるに於いて、「脱力」は基本である。
音楽のみならず、武術、スポーツ、書道、舞踊・・・、すべての芸事はそうではないであろうか?
それを、あんなに力ずくでオーケストラをドライヴする、というのは、暴力的な快感でしかない。
「ああ。、ウィーン・フィルが悲鳴を上げながら弾いている」と私は感じた。
もっとも、それを好きだ、という人がいても、非難するつもりはないけれど、私は与しない。
しかし、あんなに力の入った棒振りでは、その衝撃から首に掛かる負担は相当だろう。
かつての岩城宏之のように、将来、故障してしまわないか心配になるほどだ。
(しかし、頑丈そうな身体だから大丈夫か?)

さて、朝比奈について。
私は、学生時代から30代のはじめにかけて、熱烈な朝比奈信者であった。
コーラスの一員として、朝比奈の棒で、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」「第九」、ブルックナー「ミサ曲ヘ短調」を歌った感動も懐かしい。
しかし、自分がプロの合唱指揮者となり、勉強を進めるうちに、朝比奈の音楽に疑問を持つようになった。
その棒も音楽的とは言い難く、むしろ演奏の邪魔をしているようでもあり、
各楽器間のバランスに配慮せず「フォルテはフォルテで」という信条も「音楽づくり」を放棄したような無手勝流。
フォルテにも様々な段階、種類、ニュアンスがあって然るべきだと思うし、
何といってもピアニシモの欠如は演奏の可能性を甚だ狭めている。
シンフォニーのスケルツォのリズムだって重たすぎて、舞曲の原型を留めていない・・・。

ブルックナーが良かったのは、ブルックナーの書法がオルガン的だったため、たまたまピタリと嵌ったのであり、
モーツァルトがよくなかったのは、その裏返しである。

というようなことは、以前もどこかに書いて、宇野先生からは「あんまり悪く書くなよ」とたしなめられたほど。

しかし、それでも、朝比奈の演奏会のあとには、毎回というわけではないけれど、
様々な欠点を超越して、何というかズシリと腸に響くことがあった。
一言でいえば、人間力。ただそこに立っているだけで会場を支配する圧倒的な空気感があった。
これは上記の短所の聞こえてしまう録音では駄目で、コンサート会場限定の感動である。

私が「比較にならない」といったのは、こうしたコンサートの手応えのことであった。
あの一文で、わざわざ語ることもなかろうと、省いたことだが。

こうした考えの整理のできたのも、記事の意図を皆様に説明する機会を得たのも、
冒頭のコメントのお蔭だとすれば、コメント主には、心の片隅で感謝すべきなのかな。
面と向かって「有り難う」と言えるほど、人間は出来ていないけれど。




マガロフのショパン独奏曲全集来たぁ!

2013-11-22 09:29:32 | レコード、オーディオ
ショパンについて執筆中に、その一部をCDで聴いて感銘を受け、手配したニキタ・マガロフによるショパン独奏曲全集がようやく届いた。
蘭PHILIPS 6768 067 16LP

LPレコード16枚32面に及ぶ大作(CDでは13枚)。1974~78年、マガロフ62歳から66歳頃の録音。個人によるショパン全集としては世界初の筈である。

早速、2番、3番のソナタに針を降ろしてみたが、いやあ、大家のショパン。慌てず、騒がず、作品を慈しみ、愛でながらも、ショパンの内面に入り込んで、その懊悩や憧れを伝えてくれる。
音色は単に美しいというのではなく、何とも言えない深みと味わいを湛えている。
さらに、アナログ全盛期の録音も秀逸だ。

この偉業はLPレコードのズシリした重さこそが似つかわしい。CDのように片手で持てたり、配信のように実態さえない、ということは便利であるし、最早その流れには抗えないけれど、何か大事なものを捨てているようにも思えるのである。


クナの8分24秒

2013-11-22 01:41:22 | コーラス、オーケストラ
WIENER STAATSOPER 1936(ウィーン国立歌劇場 1936年)というレコードが届いた。
文字通り、空襲を受ける前の旧国立歌劇場に於ける1936年の演奏の記録を伝える2枚組のLPである。




オーストリアTELETHEATER 76.23589(1987年)

デ・サーバタの「アイーダ」、ワルターの「ドン・カルロ」、クリップスの「ファウスト」、ワインガルトナーの「神々の黄昏」(ブリュンヒルデ:フラグスタート)、そして、クナッパーツブッシュの「ローエングリン」「エレクトラ」「薔薇の騎士」という、すべて数シーンずつではあるが、夢見るようなラインナップである。

音質が貧しいのは覚悟していたが、ロッテ・レーマンとエリーザベト・シューマンがクナの棒の下で共演という期待の「薔薇の騎士」の音の悪さには閉口した。音楽を味わえるどころか、我慢しているのが辛いほど。

しかし、このレコードには一点の光明がある。
「エレクトラ」だ。
中学生時代に、オットー・シュトラッサーの「栄光のウィーン・フィル」の136頁にある次の一文を読んで以来、どんなにクナの「エレクトラ」に憧れたことだろう。

『リヒャルト・シュトラウスのオペラでは、音響や表現を陶酔的な激しい祭典の気分にまで高めることができた。特に彼はリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」を、後のミトロプーロスやカラヤンとは全く異なった意味で、しかしそのオペラの完全な偉容を示すすべを心得ていた。「エレクトラ」の嘆きの場面で、アガメムノンのテーマが深いバスの音からトランペットの高いCまで昇ってゆくとき、クナッパーツブッシュは、すっくと背丈をのばして、指揮棒を上に突き出し、私たちの音楽もまた忘我の境地に移っていったのである』

幸いなことに、このレコードに収められた「エレクトラ」の音は、「ローエングリン」「薔薇の騎士」ほどには悪くなく、かろうじてクナの創出したであろう凄絶な音響への手がかりを伝えてくれるのである。

収められたのはエレクトラの歌う2シーン。
1.楽劇冒頭、エレクトラが登場してすぐの「ひとりだ、悲しいことにただひとりだ」からの3分10秒
2.亡くなったと思っていた弟のオレストが目の前に現れた歓喜の場面「オレストだ!」からの5分14秒

合わせて8分24秒。
まるで、小さな節穴から広大な世界を想像するような難しい作業ではあるけれど、私は束の間その至福を味わった。
今後、状態の良いライヴ音源が発掘されることは、難しいのだろうなあ・・・。

エレクトラ役のRose Pauly






聖トーマス教会「ロ短調ミサ」DVDテスト盤

2013-11-22 00:22:07 | コーラス、オーケストラ
演奏会と執筆が一段落し、聖トーマス教会「ロ短調ミサ」DVDテスト盤を、ようやくジックリ観ることができた。YouTubeにアップした終曲Dona nobis pacemは、ここからサイズを落とした映像である。

映像の力は大きい。
聖トーマス教会の神聖な空気感、ソリスト陣、コーラス、オーケストラの息遣いまでもがひしひしと伝わってくる。

自分の指揮法については、ここまで達成できたか! と納得できる部分もありつつ、もっとリラックスしたり、アクションを自由にしなくては、との反省も少なからずある。

しかし、バッハの聖地に於ける天に祝福されたような一期一会のパフォーマンス。手前味噌にはなるが、誉められて良いだろう。

予算の都合から、撮影者はひとり。複数の固定カメラを駆使しての映像だが、それでも、やはり記録しておいて良かった。

ディスク完成の暁には、身内限定でお分けすることが出きると思う。詳細のご案内は後日。