福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

音楽人生の節目 ~ 愛知祝祭管とのブルックナー8番から1年

2015-10-26 23:07:44 | コーラス、オーケストラ

 

Bruckner: Symphony No.8 (Haas) AKIYASU FUKUSHIMA cond. Orchester der Aichi Festspiele 

ぼくの音楽人生において、節目となる演奏会はいくつかある。

中でも忘れがたいのは、2009年シュテファン寺院グランドコンサートに於けるモーツァルト「レクイエム」指揮。

ウィーンのオーケストラ、ソリスト陣とのリハーサルの緊張と高貴で神聖な空気に包まれた本番の素晴らしさ。

そして、2013年8月、バッハの聖地、ライプツィヒ聖トーマス教会に於ける「ロ短調ミサ」指揮。

これまた、ザクセン・バロックオーケストラというヨーロッパ一流の名アンサンブルとソリスト陣、そして心温かな聴衆に恵まれ、忘れがたいコンサートとなった。

しかし、さらに自分にとって重要なコンサートは、昨年10月26日愛知県芸術劇場にて行われたブルックナー「8番」演奏会ということになる。

本番直前に天から授かった全曲94分という異例のスローテンポを振り抜いたことにより、ぼく自身が生まれ変わってしまったからである。

このコンサート以後、ボクの指揮や音楽の捉え方はまったく違ってしまった。それほど、ブルックナーの音楽には霊的な力が宿っているのだ。

もちろん、それも、あの尋常ならざるテンポについてきてくれた楽員の献身あってこそ。

その意味から、上記シュテファン寺院のモーツァルト「レクイエム」や聖トーマス教会の「ロ短調ミサ」を指揮したのは、まだ本当の自分ではなかったということになる。

是非とも再挑戦しなければならない、と思っていたところ、シュテファン寺院には2017年12月5日、つまりモーツァルトの命日に再び「レクイエム」の指揮ができることが決まり、

さらには、来年3月のトーマス教会での「マタイ受難曲」を成功させることで、「ロ短調ミサ」再指揮への展望が開かれることだろう。

思えば、ボクが合唱指揮をはじめてしたのが、今から27年ほど昔、産休代替教員として出掛けた公立中学校の週1コマの「合唱クラブ」の時間だった。

そのときに、こんな音楽家としての至福が自分の未来に置かれていたとは、知る由もなかったのである。まこと幸せにして運に恵まれた音楽人生であることを、ボクに関わる全ての人々に感謝せねばなるまい。

 


スウェーデン放送合唱団のモツレクを振り返る

2015-10-26 00:22:25 | コンサート




五嶋みどりのショスタコーヴィチ。良い音の座席で聴けた人たち(または、FM放送を聴いた)からの絶賛の声が絶えない。なんとももどかしい・・。いずれ、別のホールで彼女の演奏に触れなければなるまい。

ところで、スウェーデン放送合唱団への評価を放置したままだったので、記憶の薄れないうちに都響とのモツレク初日を振り返ってみたい。

ダイクストラ指揮のオーケストラは、所謂、古楽器奏法によるもので、テンポも総じて速く、弦の音をすぐに減衰させるというやり方。例えば、「みいつの大王(Rex tremendae)」に於ける付点音符を複付点音符に扱うのも徹底している。

なんだか、それが古びて聴こえるのだなぁ。アーノンクール、ノリントンらの台頭により古楽器奏法が世に認知され始めた頃、聴く側にも、演奏する側にも、そこに新鮮な息吹を感じたものだが、いまの都響はもう慣れっこ。「指示されたからこう弾いてます」といった体で、バス声部の進行なども退屈極まった。

ここで、わたしは古楽器奏法が悪い、と言っているのではない。ダイクストラの指揮が古楽器的な奏法をさせることだけに集中し、そこにモーツァルトが居なかったことを問題にしているのだ。
テンポがいかに速かろうと、どんな語り口であらうと、そこに「こうでなければならぬ」という切実さがあれば感動に繋がっただろう。しかし、中身の空虚なただの形だけがあったのである。たとえば、キリエ・フーガのクライマックスへの道程で何も起こらず、その頂点も素通りするばかりではモーツァルトも浮かばれない。

また、コーラスのハーモニーやアンサンブルも、かつてのスウェーデン放送合唱団を知る耳には物足りないものがあった。
たとえば、Ⅴの和音からⅠの和音に解決する場面の処理が雑だったり、ハーモニーの推移に鈍感な歌い方だったり、と明らかに荒れているのだ。
もっとも、ソプラノの透明な歌声そのものには日本のコーラスには望めない魅惑の質感があることは認めよう。しかし、綺麗な声を並べただけで音楽となるほど演奏芸術は簡単ではない。しかるべき美意識に基づいた音楽づくりがなされていなかったことについて、指揮者のダイクストラに大きな責任があると思うのである。

因みに4人のソリスト陣も、わざわざスウェーデンから呼ぶことはなかったのではないか。あまりにも声がなく貧相なテノールに、無駄に声が大きくデリカシーのないバスの対比は滑稽ですらあった。