しらぬうち なくなっていた くうこうちかてつのかなしみ でいりぐちなく
桜の開花宣言もでたところで、門司港で花見がしたいという父の希望を受けて、門司港に繰り出した。
いつしぬかわからんけんね!
が、我が家に短期間だけ住んでいた時、東日本大震災が起こってからの、父の口癖になった。
これが最後かも、これが最後かも、といいながら、五年はなんとか生きてきたが。
桜は、満開ではないが、車道の横に、それなりに咲いていて、花見気分は味わうことができた。
一瞬の迎香に見とれつつ。
そのまま、勢いをまし、門司港レトロ地区へなだれ込んだ。
門司港レトロの一角にある洋館で一般公開されている絵画を見た。
父は、狭いところに入るのが憚られるのか、エレベーターで登れるというのに、そとで、車いすに座って、うろうろしているというので、母と夫と子どもたちともに、狭い階段を登っていった。
階段をのぼると煉瓦がところどころ剥がれていて、老人の歯抜けのようであるが、そこに何かオブジェがおけるような、昔であれば、蝋燭や行燈が置けそうないい感じの抜け間がある。
こういう、歴史のこぼれ落ち失った空間は、きっちり、人を寄せ付けない小奇麗な建物の、さらさらした白砂糖のような妙な甘たるさというよりも、ざらざらとしたザラメのような時を経て塊になるかならないかの、舌にざらりと残りつつも、甘い露を増すような風情、がたぴしの風情を持って、そこにあった。
繪はよせ集められたものであったが、常時相談受付みたいになっていて、売るためのスペースとなっていたようであったが、煉瓦の壁にかけられた繪、日本画であれ、西洋画であれ、とりあえず、直接、繪と相談しながら、見ることにした。
抽象画がわからないと母は言う。
母は花や人や鯉の繪や風景がとことん好きなのだったが、私は目が悪いせいも有り、はっきりと見えなくとも、輪郭がわかれば、それを風景として捉えることができるので、意外と抽象的でも、風景として色使いなどで、繪と一体化しながら会話できる方であった。
母と肩を並べて繪を見ながら話していると、子供の頃、よく母に、繪を書いてくれとせがんでいたのを思い出した。
母は決まって、新聞の押し紙広告の裏などに、れとろな見返り美人的なものや、花嫁衣装の美人画を書いてくれた。
それを見ながら、真似をして、よく繪を書いていた。
目の大きなお人形さんの香山リカちゃん的な繪ばかりであったが、いつの頃からか、家の見取り図をがむしゃらに描くようになった。
人から箱物へ。
虚像から虚無空間へのシフトが加速されたのは、おそらく、家を失うか、自分を失うかしそうであった、イランでのイラクからの爆撃体験前後であったような気がする。
人は、ふいに失うことがあることを知ると、必死にもがくものなのであろうか。
見えない人の悪意が、空から降ってくるので、人は描けなくなり、目の前に広がる部屋の空間だけが、生き延びる、すべてであったようで。
音だけが聞こえる虚無空間にこだまする爆撃音は、アトランダムな今にも死にそうな心臓音であり、激しく撃つかと思えば、ピタリとやんでいるのだった。
爆撃が終わった、その後、
アローホアクバル
と人の声が、どこかから、聞こえてきたりした。
それが、私は生きている。という絶叫のようで、聞くたびに身震いがした。
私を助けて。ではなく。アローホアクバル。なのだ。
神は偉大なり。
ここ、門司においても、爆撃はあったと、近所に住む、おばあちゃんのありちゃんに聞いたことがある。
ありちゃんはいつまでも、わかくかわいかったが、
腰だけがどうしても曲がって、やんなるわ。と
自分の体重と同じか、よほど重いであろう、電動自転車に乗って、さっそうと水泳教室に通っていた。
習うのではなく、先生として。
若いころは、いわゆるベントのようなものを自社工場で作っていた社長だったらしく、どこか、しゃんとした、男前のおばあちゃんであったが、近所のこどもたちから、ありちゃんと声をかけられて、はあいなどといって、手を振る姿は、まだまだいける感じの齢90くらいのお転婆さんなのであった。
ありちゃんがまだ学生の頃、門司で爆撃があったんよ。
と、ありちゃんが話してくれたのは、たぶん、私がイランでの爆撃の記憶を彼女に話してからだったと思う。
爆撃で、うちの硝子窓が割れて、溶けているのを見たんよ。
ああ、硝子って、とけるんだなあって、初めてみたもんだから、ちょっと、見とれとったんよ。
ぜんぶ、自分の家が燃やされて、焼き出されとうのにねえ。
ありちゃんは、いつものように、こどものように目をくりくりさせながら、口をちょっと尖らせて言った。
自分の家が壊れても、我を忘れて、硝子に見とれてしまう、現実から脱げているようで、本当の現実の現象を目に焼き付けていたのだ。
私も、また、同じように、我を忘れて、目の前の現実を、あの音だけの空間を、トレースし続けていたのだ。
と。ありちゃんとの会話に思いがつながり、時代も場所も違えど、同世代時期に起こったことが重なって、やっと、自分の中のいつまでも消化しきれない、なんだか訳がわからないことへの、漠然とした溝のそこまで、辿りつけたような気がしていた。
それから、子どもと夫は、ふぐフィッシュ・アンド・チップスと焼きカレーを探し求めて忽然と消えたのか、はぐれてしまったので、母と一緒に、洋館の展望台といわれる三階に登って、門司港を見た。
海は静かに、とけ始めた硝子のように、風に吹かれて、ぐにゃりとぐにゃりと、うねっていた。
父は、外で、車いすに乗って背中を向けて、風に吹かれながら、陽を浴びて、一本の枯れ果てようとしている桜木か老松のように、なんとはなしに待っていた。
いつしぬかわからんけんね!
が、我が家に短期間だけ住んでいた時、東日本大震災が起こってからの、父の口癖になった。
これが最後かも、これが最後かも、といいながら、五年はなんとか生きてきたが。
桜は、満開ではないが、車道の横に、それなりに咲いていて、花見気分は味わうことができた。
一瞬の迎香に見とれつつ。
そのまま、勢いをまし、門司港レトロ地区へなだれ込んだ。
門司港レトロの一角にある洋館で一般公開されている絵画を見た。
父は、狭いところに入るのが憚られるのか、エレベーターで登れるというのに、そとで、車いすに座って、うろうろしているというので、母と夫と子どもたちともに、狭い階段を登っていった。
階段をのぼると煉瓦がところどころ剥がれていて、老人の歯抜けのようであるが、そこに何かオブジェがおけるような、昔であれば、蝋燭や行燈が置けそうないい感じの抜け間がある。
こういう、歴史のこぼれ落ち失った空間は、きっちり、人を寄せ付けない小奇麗な建物の、さらさらした白砂糖のような妙な甘たるさというよりも、ざらざらとしたザラメのような時を経て塊になるかならないかの、舌にざらりと残りつつも、甘い露を増すような風情、がたぴしの風情を持って、そこにあった。
繪はよせ集められたものであったが、常時相談受付みたいになっていて、売るためのスペースとなっていたようであったが、煉瓦の壁にかけられた繪、日本画であれ、西洋画であれ、とりあえず、直接、繪と相談しながら、見ることにした。
抽象画がわからないと母は言う。
母は花や人や鯉の繪や風景がとことん好きなのだったが、私は目が悪いせいも有り、はっきりと見えなくとも、輪郭がわかれば、それを風景として捉えることができるので、意外と抽象的でも、風景として色使いなどで、繪と一体化しながら会話できる方であった。
母と肩を並べて繪を見ながら話していると、子供の頃、よく母に、繪を書いてくれとせがんでいたのを思い出した。
母は決まって、新聞の押し紙広告の裏などに、れとろな見返り美人的なものや、花嫁衣装の美人画を書いてくれた。
それを見ながら、真似をして、よく繪を書いていた。
目の大きなお人形さんの香山リカちゃん的な繪ばかりであったが、いつの頃からか、家の見取り図をがむしゃらに描くようになった。
人から箱物へ。
虚像から虚無空間へのシフトが加速されたのは、おそらく、家を失うか、自分を失うかしそうであった、イランでのイラクからの爆撃体験前後であったような気がする。
人は、ふいに失うことがあることを知ると、必死にもがくものなのであろうか。
見えない人の悪意が、空から降ってくるので、人は描けなくなり、目の前に広がる部屋の空間だけが、生き延びる、すべてであったようで。
音だけが聞こえる虚無空間にこだまする爆撃音は、アトランダムな今にも死にそうな心臓音であり、激しく撃つかと思えば、ピタリとやんでいるのだった。
爆撃が終わった、その後、
アローホアクバル
と人の声が、どこかから、聞こえてきたりした。
それが、私は生きている。という絶叫のようで、聞くたびに身震いがした。
私を助けて。ではなく。アローホアクバル。なのだ。
神は偉大なり。
ここ、門司においても、爆撃はあったと、近所に住む、おばあちゃんのありちゃんに聞いたことがある。
ありちゃんはいつまでも、わかくかわいかったが、
腰だけがどうしても曲がって、やんなるわ。と
自分の体重と同じか、よほど重いであろう、電動自転車に乗って、さっそうと水泳教室に通っていた。
習うのではなく、先生として。
若いころは、いわゆるベントのようなものを自社工場で作っていた社長だったらしく、どこか、しゃんとした、男前のおばあちゃんであったが、近所のこどもたちから、ありちゃんと声をかけられて、はあいなどといって、手を振る姿は、まだまだいける感じの齢90くらいのお転婆さんなのであった。
ありちゃんがまだ学生の頃、門司で爆撃があったんよ。
と、ありちゃんが話してくれたのは、たぶん、私がイランでの爆撃の記憶を彼女に話してからだったと思う。
爆撃で、うちの硝子窓が割れて、溶けているのを見たんよ。
ああ、硝子って、とけるんだなあって、初めてみたもんだから、ちょっと、見とれとったんよ。
ぜんぶ、自分の家が燃やされて、焼き出されとうのにねえ。
ありちゃんは、いつものように、こどものように目をくりくりさせながら、口をちょっと尖らせて言った。
自分の家が壊れても、我を忘れて、硝子に見とれてしまう、現実から脱げているようで、本当の現実の現象を目に焼き付けていたのだ。
私も、また、同じように、我を忘れて、目の前の現実を、あの音だけの空間を、トレースし続けていたのだ。
と。ありちゃんとの会話に思いがつながり、時代も場所も違えど、同世代時期に起こったことが重なって、やっと、自分の中のいつまでも消化しきれない、なんだか訳がわからないことへの、漠然とした溝のそこまで、辿りつけたような気がしていた。
それから、子どもと夫は、ふぐフィッシュ・アンド・チップスと焼きカレーを探し求めて忽然と消えたのか、はぐれてしまったので、母と一緒に、洋館の展望台といわれる三階に登って、門司港を見た。
海は静かに、とけ始めた硝子のように、風に吹かれて、ぐにゃりとぐにゃりと、うねっていた。
父は、外で、車いすに乗って背中を向けて、風に吹かれながら、陽を浴びて、一本の枯れ果てようとしている桜木か老松のように、なんとはなしに待っていた。
政府は22日、首相官邸で第3回の国際金融経済分析会合を開き、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン・米ニューヨーク市立大教授が来年4月の消費増税に疑問を呈した。安倍晋三首相は景気を見極めつつ、衆院解散も含めてフリーハンドを握る構えだが、政府・与党で増税への賛否の声が交錯し始めた。
同氏は会合で日本経済について「消費税の問題もある」と指摘した。日銀のマイナス金利は「効果に限界がある」と述べ、財政出動の必要性を強調。その後、記者団に「日本はデフレを脱するスピードに達しておらず、消費税率アップを今やるべきではない」と明言した。16日にはスティグリッツ米コロンビア大教授も増税延期を提言した。
一方、17日にはジョルゲンソン米ハーバード大教授が首相から「税制改革の具体策」を問われ、「法人税から消費税への移行が必要だ」と述べた。増税論者で知られる同氏に首相が提言を求めたことで、財務省では「予定通り増税する選択肢も残っている」(幹部)との期待が広がった。
ただ、方向性をあいまいにした議論に、2012年に消費増税を決めた自公民の3党合意の当事者から異論も出ている。自民党の谷垣禎一幹事長は22日の記者会見で消費増税を「既定方針だ」と強調。公明党の山口那津男代表も「経済情勢を理由に先送りする判断には、今のところならないだろう」と語った。
対照的に、首相の経済ブレーンはアベノミクスの先行きに懸念が強い。浜田宏一内閣官房参与は記者団に「増税で産業の元気がなくなる。首相の英断が必要だ。本当に上げたら選挙には勝てないだろう」とも発言した。
野党は政局と連動させた消費税論議に反発を強めている。民主党の細野豪志政調会長は22日、「さらに先延ばしするならばアベノミクスの失敗にとどまらず、安倍政権の敗北だ。退陣するのが筋だ」と批判した。【大久保渉】
同氏は会合で日本経済について「消費税の問題もある」と指摘した。日銀のマイナス金利は「効果に限界がある」と述べ、財政出動の必要性を強調。その後、記者団に「日本はデフレを脱するスピードに達しておらず、消費税率アップを今やるべきではない」と明言した。16日にはスティグリッツ米コロンビア大教授も増税延期を提言した。
一方、17日にはジョルゲンソン米ハーバード大教授が首相から「税制改革の具体策」を問われ、「法人税から消費税への移行が必要だ」と述べた。増税論者で知られる同氏に首相が提言を求めたことで、財務省では「予定通り増税する選択肢も残っている」(幹部)との期待が広がった。
ただ、方向性をあいまいにした議論に、2012年に消費増税を決めた自公民の3党合意の当事者から異論も出ている。自民党の谷垣禎一幹事長は22日の記者会見で消費増税を「既定方針だ」と強調。公明党の山口那津男代表も「経済情勢を理由に先送りする判断には、今のところならないだろう」と語った。
対照的に、首相の経済ブレーンはアベノミクスの先行きに懸念が強い。浜田宏一内閣官房参与は記者団に「増税で産業の元気がなくなる。首相の英断が必要だ。本当に上げたら選挙には勝てないだろう」とも発言した。
野党は政局と連動させた消費税論議に反発を強めている。民主党の細野豪志政調会長は22日、「さらに先延ばしするならばアベノミクスの失敗にとどまらず、安倍政権の敗北だ。退陣するのが筋だ」と批判した。【大久保渉】
町田彩夏
@Ayaka_m_y
7 時間
議論には多様性が必要です。時にそれが偏った意見だったとしても、偏っているからと遠ざけていては、議論は平行線を辿ると思います。様々な意見や考え方があってこそ、そして、お互いを尊重することで、成熟した熟議を行うことのできる場が生まれると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
若者のほうが、やわらかい。
主義を掲げ、正義を振りかざすものこそ、気をつけなければならない。
と本能的に見て取れるものがまだある。
一方的なものの見方を押し付けられ続けたにも関わらず。
可能性はある。