欲望の最先端に「性」行為があるとすれば、最後尾には語りがあった。
行為の後に、語りが跡追いして、尾ひれをつけて、そのまま居座ろうとした。
その時にあったことをすべて、その語りに譲ってしまうほどの、肉々しさから憎々しさへの、肉体から思考への変換が行われるのだ。
戦時売春婦である慰安婦もそうである。
肉々しいまでの行為と引き換えに大金を積まれながら、その金のために己の身体を売り渡したことを人に咎められない言い訳に、己の意志ではなかったという。
あたかもそこに正義があるかのように。
誰が、何と言おうと、己の責任ではなく、時代が悪いという。
お金のない時代が悪いと。
はたしてそうであろうか。
お金がなくとも、幸せであったのではないだろうか。
花のような乙女であったというのだから。
親に売られていく花は哀しいが、花の代金をもらった親は、娘を食い物とかえただけである。
結婚制度も、花嫁となり、つまれてしまったもので、同じようなものだというが、一つだけ大きく違うと思われるのは、共同作業がその場だけの「性」行為だけではなく、その他の生活も、運命共同体になるということであり、一過性のものではなく、全てにおいて連続性が伴うということである。
売春行為の場合、一過性の最たるもので、決して、ひとつの共同体としては成り立たず、ただ「性」行為のためだけの関係性が、その場において成り立つのみである。
性のせいで、人生が狂ってしまったすべてのものにいえることは、性のせいにしなくとも、人のせいだけにする己の人生は十分狂っているということ。
己をごまかしながら、死ぬということ。
もっと喜びを語りなさい。
集団の喜び組は、見世物であり、そこから、選ばれて欲望の対象にされるという。
己の喜びのためではなく、人の喜びにくみするものを喜び組というのだ。
哀しき喜び。
人はなぜ、うまれてくるのであろうか。
人の喜びのために生まれてくるのであろうか。
それとも、己の喜びのために。
性のせいで、欲望にくみし、狂い、喜ぶ。