日本中が震撼した、『東日本大震災』。
あれから今日で3年・・・。
2011年3月11日 午後2時46分。
この時を私は生涯忘れることはないでしょう。
地震当時、私は仕事場にいました。
打ち合わせが終わり、さあ、これから午後の仕事を始めようとしていた矢先。
訪れた、揺れ。
私は小学生の頃に読んだ地震・火山についての本の影響で、地震に遭遇した際何秒揺れているか測る習慣があります。
「地震は長くて1分」
そう、その本には書いてあったので。
・・・10・・・30・・・50・・・
収まらない。
些細なものに思えたその揺れは、次第に回転しているような横揺れへ。
・・・60・・・70・・・
1分を超えた。
でもまだ収まらない。
終いにはかなりの縦揺れに。もう建物が軽くジャンプしているかのよう。
これまでの地震と違う。
さすがにそう感じはしたものの、どうしたらいいかも分からず、私も他の職員の方々もただ立ち尽くして様子を見るしかありませんでした。
そしてようやく揺れはおさまったものの・・・。
揺れている途中からテレビをつけて状況を把握しようとしたのですが、突如停電。(国会中継が映されていましたが、議事堂が揺れたあたりで停電に)
真っ先に心配になったのが家族の安否。
特に、一人暮らしをしている祖母の身が。
祖母がほぼ1日中いる茶の間には、祖母が座っている背後に大きな茶箪笥が置かれています。
もしそれが倒れてきたら。もし祖母が下敷きにでもなっていたら。
急いで携帯から、祖母に連絡を。
私は運が良かったです。
地震発生直後だったという事もあってか、二度目の掛け直しで繋がりました。
無事という事で、まずは一安心。
祖母からの後日談によると、地震が発生した時丁度雪かきをしていたそうで、偶然にも雪がクッションとなって揺れにも全く気付いていなかったとのこと。
雪かきを終え、家に入ってすぐに私からの電話が来たとのことでした。
本当に、このタイミングの良さに感謝です。
無事を確認できたものの、これ以降は電話の混線は必至。
とにかく余震に気を付けること、停電になったこと、これから連絡を入れるのは難しくなることなどを伝え、電話を切りました。
そして後は、ひたすら仕事の対応へ。
建物の損壊、特にガス管が破裂していないか等を確認し、非常食のチェック。
じきに訪れる夕闇のためのロウソクや乾電池、紙皿や紙コップ等は、他の職員の方が買い出しに行ってくださいました。
またもや幸運なことに、私の持ち場は水道・ガス共に支障無し。
他の持ち場の方々に水を提供しつつ、ほぼ普段通りの仕事を行うことができました。
日が沈む前に、まだ明るいうちに食事を提供しておこう、という上司のアドバイスにより、早い夕食へ。
そうしていよいよ日が沈み、暗い中懐中電灯やロウソクの明かりを頼りに片づけを行いましたが、お湯が出ないため、冬の水の冷たさに本気で手がもげるかと思いました。
それでも、食を提供する側からしてみれば、衛生管理は最重要事項。
煮沸消毒などを行ない、しっかり対処。やっぱりこういう非常時が、一番衛生的に危なくなりますからね・・・。
停電のため、冷蔵庫の中の食材が痛まないかが一番の不安要素でしたが、冷凍庫の氷を入れたり、 3月というまだまだ(東北地方にとって)寒い時期であったことも幸いし、事無きを得ました。
そんな仕事の最中に、叔母から連絡が。
伯父と共に祖母宅に駆け付けたので、祖母の事は心配しなくてもいいと。
これで一気に安心感が。
もう、今日は何時に帰れるか分からなかったので。
普段は20時過ぎには終わる仕事なのですが、この日はいつもと勝手が違ったこともあって、終わったのが22時でした。
実家や祖母宅の様子が心配ではありましたが、深夜遅くになっていたことと、信号全てが消えているため、向かう途中で事故に遭ってしまったら・・・と思うと怖く、その日はまっすぐ自分のアパートへ。
明かりが一つも灯っていない、真っ暗な町。
見慣れた町のはずでしたが、怖かったです。
そして日が昇り、見えるようになった部屋からまず取り出したのが防災袋。
念のためと、結婚式の引き出物で選んでいたのですが、『備えあれば憂いなし』という言葉をこの時ほど実感したことはありませんでした。
部屋が明るくなってから、炊飯器が棚から落ちていることに気付くことに。
でもそれ以外は落下物等は特に無く。
特にテレビは、年が明けてすぐに買ったばかりの新品でしたので、倒れてなくて安心しました。
その日も仕事があったため、早めにアパートを出て実家に向かい、両親の無事を確認。
停電のため暖房が付けられず、昨晩はずっと車中でヒーターを付けながら過ごしたとのこと。
電話ボックスが無料で使えるとの情報を得ていたので、祖母宅へ通話。さすがは有線、一発で繋がりました。
特に変わらず、大丈夫と言うことで、そのまま出勤。
そうしてその日の夕方、夕食後に電気が復旧し、私の地区は一応の落ち着きを取り戻したのでした。
震災に遭って、感じたのは、空虚感でした。
山一つ挟んだ向こうでは、今この瞬間にもどれだけの方々が泣いているのか。絶望しているのか。苦しんでいるのか。
それなのに、自分は何の苦労も無しに食事にありつけて、多くの人が周りにいて、ちゃんとしたベッドで横になることが出来て。
自分は何をやっているんだろう。
そう、事ある毎に思いました。
そんな私が出来ることは。
物凄く些細な事だけど。
忘れないこと。
あの時の気持ち、あの時見たもの、感じたもの。
仕事帰りの吹雪の夜の中、一生懸命配線の復旧作業にあたってくれていたおじさん達の後姿。
テレビの向こう側にいた、生存を呼びかける多くの方々。
津波に流されている家の屋根の上に、ぽつんと残されていたワンちゃん。
それら多くの姿を、決して、決して忘れないように。