そういえば、ここ最近の『ソーマ』はずっとジャンプ本誌での掲載位置が低めですね~。
ネット界ではその点について色々と言われておりますが・・・
私は全く気にしてません。
だって。
高掲載順の頃と変わらず、面白いままですもの。(^^)
ジャンプの場合、「掲載順が下→人気が低下→打ち切り」という法則が見られますが、『ソーマ』の場合は心配する必要は無いと思っています。
これで作品の魅力が低下していたりしたら私も心配していましたが、依然として素敵な魅力を保ったままですからね。
むしろ、私は掲載順とは別の点が気になっています。
『ソーマ』ってここ最近・・・
カラーが全然出てませんよね?
酷い時・・・もとい、全盛期の時はそりゃもう、二週間に一回の頻度でセンターカラーや別冊(ジャンプGIGA等)でのポスターなど、カラーイラストが頻繁に出ていましたよね?
それなのに最近はセンターカラーは勿論、別冊でも全く『ソーマ』のカラーイラストが描かれておりません。(強いて挙げるならば、ジャンプ表紙の集合絵ぐらいでしょうか?)
一年ほど前は本編でもカラー、単行本でもカラー、加えて限定版カラー、別冊カラー、カラー、カラー、カラー、と
そりゃもう、見てるこっちが佐伯先生が過労死してしまうと本気で青ざめるほどだったというのに。
・・・これはやっぱりあれでしょうかねえ・・・。
葦原先生の休載が多少なりとも関係しているのでしょうか・・・。
葦原先生の体調の件は私にとっても非常に残念でした。
私もまた『ワールドトリガー』を毎週楽しみに読んでいる身でしたから。
今はただ、葦原先生がごゆっくりと療養なさって、心身ともに完全に回復してくださるのを祈るのみです。
約三年前、「新鮮力キャンペーン」として、共に活動した『ソーマ』と『ワートリ』。
静止画MADコンテストでも一緒でしたよね。(懐かしいな)
葦原先生の休載にあたって、ジャンプ編集部の方もさすがに『ソーマ』(佐伯先生)の過重負荷を考えてくださったのでしょうか?
何だかんだで『ソーマ』もめでたく連載4周年を迎えたわけですが、『ソーマ』よりも前から連載が続いている作品って、もう『ワンピース』・『銀魂』・『ハイキュー!!』・『斉木楠雄のΨ難』の4つしかないんですよね。(しかも『銀魂』は最終章に入っちゃってるし)
それを考えると、『ソーマ』もいまやジャンプにとって欠かせない中堅漫画と言えます。
ただでさえ今現在のジャンプは『こち亀』を始めジャンプの歴史を支え続けてきた大御所作品が(『ワンピース』を除いて)不在の状態。
ジャンプ編集部も若手作家達の成長&発見に努める一方で、現在連載中の作家陣の負担を(ようやく)考え直してくれたものと思いたいです。
『ゆらぎ荘』や『鬼滅の刃』も頑張ってくださっていますし、これからのジャンプはアニメ化作品の持ち上げだけでなく、新旧万遍なくアピールのバランスを取っていただきたいところです。
そんなわけで
人気ゆえの過労、期待ゆえの過負荷と結び付けて考えざるを得なかったのが今回の城一郎の姿でした。
葉山と創真の再戦を、自身もダークサイドに落ちながら話を作られたと仰っていた附田先生。
前回に引き続き今回の話を作られた時もまた、非常に心苦しかったことでしょう。
それはきっと、附田先生だけでなく佐伯先生もまた同じだったと思います。
なにせ、これほどの流血表現はこの作品で
一度も描いてこなかったのですから。
厳しくも温かいこの作品。
その温かさ(優しさ)の一つとして、「殴打」という表現こそはあったものの明らかな「流血」はほとんど無かったんですよね。
そのことも相まって、城一郎のボロボロさは尚一層辛いものがありました。
何故だか、連帯食戟後はゲテモノ料理を創らなくなってしまった城一郎。
はっきりと推し測ることはできませんが・・・。
「“天才”と謳われる自分だって失敗する」という暗なる訴えからゲテモノ料理を創っていたであろう城一郎ですが、自分に対する“偏見”が変わらないのならばゲテモノ料理を創るのもどうせ無駄なことと、切り捨ててしまったのでしょうかね?
でもそれは、城一郎をさらに追い詰めることになってしまったという。
元々は自由な発想から料理を創っていた城一郎。
そんな「自由さ」が大きな楽しさでもあったのでしょう。
でも。
それが周囲に評価されていくうちに、いつの間にか「自由な料理」は「新しい味」と受け取られていき。
遂には「新しい味」ばかりを求めら続けることになってしまったという。
評価されるほど、認められるほど、追い詰められていく自分自身。
それはえりなのそれとよく似ています。
今回の城一郎の話を読んで思い出した言葉がありました。
それは第33話の堂島先輩の言葉。
「料理人として生きることは 嵐舞う荒野を一人きりで彷徨うに等しい・・・」の件です。
今回の城一郎のイメージは間違いなくその言葉を示していたとしか思えません。
この時の城一郎は「帰り道」はおろか、同じ荒野にいる「仲間達」のことすらもはや見えなくなってしまっていたのでしょう。
それほどまでに追い詰められる前に、どうして周囲に相談しなかったのだろう?と疑問に思われる読者もひょっとしたらおられるかもしれませんね。
ましてや城一郎の傍にはふみ緒さんや自分を慕ってくれる同僚達、なにより堂島先輩がいてくれたのですから。
でも、城一郎は自身の苦しみを誰にも見せなかった。
何故なら。
城一郎もまた、非常にプライドの高い人物だったからです。
自身の悩み。苦しみや疲れ。
それを表に出すことは「弱さ」として、絶対に許さなかったのでしょう。
過去の城一郎が陥ってしまった道は、創真は絶対に辿らない。
そう信じている私ですが・・・。
今回の城一郎の姿には、やはり私が以前から抱き続けている創真に対しての懸念要素が感じ取られました。
それは、多くの仲間達に囲まれていながらも自身の内心に気付いてくれる者はいなかったという“孤独”。
これは三周年記念考察においても述べていることです。
多くの人達に慕われていながらも、理解してくれている人は少ない創真に対しての。
ですから・・・。
私はこれからもずっと、創真を心配し続けていくと思います。
そして同時にずっと、創真を信じ続けていくと思います。
だって、創真は自分の内心に気付いてくれている人に出会えていますから。
自分に常に真っ直ぐにぶつかってきてくれる相手に出会えていますから。
どんな時だって“楽しさ”を見失わないでいてくれている創真は、そんな彼らとの“出会い”にもちゃんと向き合ってくれていますから。