内田百「冥途」

 ちくま文庫から出ている、内田百集成3「冥途」を読んだ。
 はじめて百の作品を読んだのは、本屋の「猫の本フェア」というようなコーナーで見つけた「ノラや」という随筆で、ある日、庭の木賊の茂みを抜けて出て行ったまま戻らなくなった猫のノラを、あらゆる手段を尽くして探したけれども行方が知れず、ノラを思って泣き暮らす日々の記録であった。猫の可愛らしい仕草などの描写がすばらしくて、ノラへの愛情が豊かに感じられるので好きな本なのだが、はじめて読んだのがこの「ノラや」であったから、内田百とは少しめそめそしたところのある老人かと思っていたら、レビューなどを見ると、「百にこんな一面があったとは、意外」というような感想が多いのである。
 そこで別の随筆集を買ってみると、「百鬼園」などという恐ろしげな別号をつけた百は、頑固でへそ曲がり、意地っ張りで、「イヤダカラ、イヤダ」という名文句に象徴されるような人であった。この「イヤダカラ、イヤダ」は、芸術院会員に推薦されたときに、辞退の理由として述べた言葉とされているが、実情はもう少し複雑らしい。が、ここでは深く述べない。
 ともあれ、今回読んだ「冥途」は百の小説集で、へそ曲がりの百鬼園先生がどんなへその曲がった小説を書いたのだろうと思って読んだら、また予想が外れた。
 夢の世界なのである。本の最後の付けられた芥川龍之介の評によると、「冥途」をはじめとする数編は、漱石の「夢十夜」のように夢の形式をとった小説ではなく、百の見た夢そのままを書いたものであるという。それが本当なら、やはり文豪の見る夢というのは、私のような一般人とは格が違うのか、とてつもなく細かい。夕日が染める空の色だとか、葦の原を渡る風の音だとか、微かな光の変化まで、夢それ自体が一編の詩となっている。
しかしナンセンスで不思議な世界であるから、「百鬼園随筆」を読んで勝手に形作っていた百像だけれど、百がこのような精神世界を有していたことにとても驚いた。
 そうやって面食らったまま読み進めていったからか、よく作品を味わえなった感があり、また、こういう手の訳のわからない話はあまり好きではないのだけれど、しばらく読んでから少し前のページに戻ってみると、何かしらとても懐かしいような気持ちがするので、しばらく間をおいて、再読するのもいいかもしれない。
 ちなみに、新潮文庫の「百鬼園随筆」および「続百鬼園随筆」の表紙には、百と同じ漱石の門下生であった芥川龍之介が百を描いた絵が使われていて、面白い。
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