私が住んでいるところより、北に位置する母の住む地。
今朝は布団から出している顔が冷たくて、目が覚めました。
私と同じくらいに起きた母に、「ガスストーブつけるよ」というと、
「12℃だからいらない」という母。
母は暑さ寒さを肌よりも温度計で感じる人です。
寒いのでガスストーブを勝手につけて、部屋を暖めました。
いつも暖をとらない母は、ものすごく肩がカチカチで、手も冷たいのですが、
顔が熱いとガスストーブを嫌がります。
寒さで熱を逃さないように、体を固めるんだろうな。
そして、巡りが悪いから顔だけが熱いんだろうな、と思い、
首のあたりをほぐしました。
セルフケア、大事ですよ、母ちゃん。
察することができるか、できないか。
人の思いを感じることができるか、できないか。
これは、発達の凸凹があろうとなかろうと、とても大事なことだと思います。
先日、私は早朝の職場で、配達トラックに同乗するという研修を受けました。
この研修は、どういうことを学びなさい!と指定されている訳ではなく、
ドライバーさんの仕事を見て、積まれた荷物を見て、
それぞれが自分で学ぶということに重きが置かれていました。
同乗させてもらって、はじめて、自分たちが積込んだものが少しでも歪んでいると、
ドライバーさんが荷崩れを起こさないように工夫していることや
個々の荷物にはなるべくきれいなフタをしようと私たちもしていますが、
それ以上に、きれいなフタが求められていることなど、
自分たちのしている作業について考えさせられることが多々ありました。
また、いつもはひとりで仕事をするドライバーさんも私に気を使ってくださってると思うので、
私も少しでもお役に立てるように、仕事を少しでもスムーズにするにはどうすれば良いか、
と試行錯誤しながら、半日過ごしました。
研修後、ドライバーさんにご挨拶にいくと、
「近頃、定時に食べられなかった昼食が今日は定時に食べられます!ありがとうございました。」
と言ってくださり、私もとても嬉しい気持ちになりました。
次の日、別の日に同じ研修を受ける同僚に、
「昨日はどうだった?どんなことした?」と聞かれたので、
「ドライバーさんの邪魔にならないように、でも、自分のできることはなるべくするようにしたよ。」
というと、
「具体的には?何をした?何が邪魔になる?メモしようかな。
書かないと忘れるよね。確認もしなきゃかな」と矢継ぎ早に言うので、
私はびっくりもしましたが、
ああ、そうだ、この人は察して仕事はできない人だった、ということを思い出しました。
「ドライバーさんも違う人かもしれないし、メモを見ながら、いちいち動いていたら遅くなるよ」と
いうと、同僚はとても不機嫌になってしまいました。
「これをしたら、ドライバーさんの負担が軽くなるかも、って、
思いながら、仕事をよく見てみたらいいよ。」というと、
「それは、私が苦手とする分野だからね。難しいのよ。」とさらりと言います。
「それなら、正直に、
『お手間をとらせて申し訳ないのですが、
私は察して仕事をすることはできないので、すべて指示してください。
そうでなければ動けません』って言ったら?」というと、同僚はモゴモゴ言いながら去っていきました。
先日、私が再会した子は、中学生の頃は
「あんた、なんで、いつも上から目線なの!」と同級生に言われるような口の聞き方でした。
そうやって、同級生に押し、揉まれ、しながら鍛えられ、
同居する厳格なおじいさん、おばあさんにも諭され、
私にも時と場合によっては、「ああ?なんて?もう一回言ってん。」とたしなめられて、
少しずつ、少しずつ、話し言葉を修正していっていました。
でも、そこではまだ、相手の気持ちを感じての修正ではなかったので、
ぎこちない変換のような言葉が発せられることもしばしばありました。
再会した時は、電車でつり革をつかみ損ねて、コケそうになった私に、
「ここ、持っても良いですよ」とつり革をひとつずれてくれました。
小雨が降れば、「長傘なので、私の傘にはいりますか?」と折り畳み傘の私を気遣ってくれました。
頼んだお昼ご飯が食べきれない時も、ごちそうした私たちに気を遣い完食しようとしていました。
そこでその子が発した言葉や行動は、
状況を見たり、相手の自分への気持ちを察したりする、血の通ったものでした。
高校での3年間、色々とあったその子が揉まれながらもたくましく成長したんだなぁ、と、
本当に嬉しく思いました。
血の通った、人と人とのあたたかい交流ができるようになること。
これは、人として本当に大事なことですね。
上っ面の教育や支援ではこれは難しいことのように思います。
親も支援者も、本気の気持ちをを出さなくてはですね。
今朝は布団から出している顔が冷たくて、目が覚めました。
私と同じくらいに起きた母に、「ガスストーブつけるよ」というと、
「12℃だからいらない」という母。
母は暑さ寒さを肌よりも温度計で感じる人です。
寒いのでガスストーブを勝手につけて、部屋を暖めました。
いつも暖をとらない母は、ものすごく肩がカチカチで、手も冷たいのですが、
顔が熱いとガスストーブを嫌がります。
寒さで熱を逃さないように、体を固めるんだろうな。
そして、巡りが悪いから顔だけが熱いんだろうな、と思い、
首のあたりをほぐしました。
セルフケア、大事ですよ、母ちゃん。
察することができるか、できないか。
人の思いを感じることができるか、できないか。
これは、発達の凸凹があろうとなかろうと、とても大事なことだと思います。
先日、私は早朝の職場で、配達トラックに同乗するという研修を受けました。
この研修は、どういうことを学びなさい!と指定されている訳ではなく、
ドライバーさんの仕事を見て、積まれた荷物を見て、
それぞれが自分で学ぶということに重きが置かれていました。
同乗させてもらって、はじめて、自分たちが積込んだものが少しでも歪んでいると、
ドライバーさんが荷崩れを起こさないように工夫していることや
個々の荷物にはなるべくきれいなフタをしようと私たちもしていますが、
それ以上に、きれいなフタが求められていることなど、
自分たちのしている作業について考えさせられることが多々ありました。
また、いつもはひとりで仕事をするドライバーさんも私に気を使ってくださってると思うので、
私も少しでもお役に立てるように、仕事を少しでもスムーズにするにはどうすれば良いか、
と試行錯誤しながら、半日過ごしました。
研修後、ドライバーさんにご挨拶にいくと、
「近頃、定時に食べられなかった昼食が今日は定時に食べられます!ありがとうございました。」
と言ってくださり、私もとても嬉しい気持ちになりました。
次の日、別の日に同じ研修を受ける同僚に、
「昨日はどうだった?どんなことした?」と聞かれたので、
「ドライバーさんの邪魔にならないように、でも、自分のできることはなるべくするようにしたよ。」
というと、
「具体的には?何をした?何が邪魔になる?メモしようかな。
書かないと忘れるよね。確認もしなきゃかな」と矢継ぎ早に言うので、
私はびっくりもしましたが、
ああ、そうだ、この人は察して仕事はできない人だった、ということを思い出しました。
「ドライバーさんも違う人かもしれないし、メモを見ながら、いちいち動いていたら遅くなるよ」と
いうと、同僚はとても不機嫌になってしまいました。
「これをしたら、ドライバーさんの負担が軽くなるかも、って、
思いながら、仕事をよく見てみたらいいよ。」というと、
「それは、私が苦手とする分野だからね。難しいのよ。」とさらりと言います。
「それなら、正直に、
『お手間をとらせて申し訳ないのですが、
私は察して仕事をすることはできないので、すべて指示してください。
そうでなければ動けません』って言ったら?」というと、同僚はモゴモゴ言いながら去っていきました。
先日、私が再会した子は、中学生の頃は
「あんた、なんで、いつも上から目線なの!」と同級生に言われるような口の聞き方でした。
そうやって、同級生に押し、揉まれ、しながら鍛えられ、
同居する厳格なおじいさん、おばあさんにも諭され、
私にも時と場合によっては、「ああ?なんて?もう一回言ってん。」とたしなめられて、
少しずつ、少しずつ、話し言葉を修正していっていました。
でも、そこではまだ、相手の気持ちを感じての修正ではなかったので、
ぎこちない変換のような言葉が発せられることもしばしばありました。
再会した時は、電車でつり革をつかみ損ねて、コケそうになった私に、
「ここ、持っても良いですよ」とつり革をひとつずれてくれました。
小雨が降れば、「長傘なので、私の傘にはいりますか?」と折り畳み傘の私を気遣ってくれました。
頼んだお昼ご飯が食べきれない時も、ごちそうした私たちに気を遣い完食しようとしていました。
そこでその子が発した言葉や行動は、
状況を見たり、相手の自分への気持ちを察したりする、血の通ったものでした。
高校での3年間、色々とあったその子が揉まれながらもたくましく成長したんだなぁ、と、
本当に嬉しく思いました。
血の通った、人と人とのあたたかい交流ができるようになること。
これは、人として本当に大事なことですね。
上っ面の教育や支援ではこれは難しいことのように思います。
親も支援者も、本気の気持ちをを出さなくてはですね。