日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

言葉の分類、部分と全体。

2014-12-26 21:09:44 | フォイヤーシュタイン
 帰省のための飛行機のチケットを買いに行ったら、
3年前に買ったときより、だいぶ値上がりしていてびっくりしました。
それと同時に、以前は帰省のシーズンは使えなかった割引が使えるようになっていて、
1ヶ月前に予約していれば、だいぶ安く買えるようになっていました。
何事も、計画的に…なのですね。

 今日はフォイヤーシュタインを一緒にしている子どもさんとの
年内最後のお勉強の日でした。

 まず最初に、点を追いかける遊びを通して、
視線を必要な場所にできるだけ早く移していくことや
本人の視線のテリトリーから、その外に出ることをしました。

 そんな遊びの途中、「人」という漢字を書いていたので、
「人って、どういう意味?」と聞くと、私の方を指差します。

 「へぇ、私、人なんだ!じゃあ、○くんは?」と聞くと、
「人」とにっこり、。
「他にも人いる?」と聞くと、
横にいたお母さんを指差していました。

 そのあと、「男」という字を書きながら、
「○は男!」というので、
「ええ!○くんは『人』じゃなくて男なの?」と聞くと、
「うん!」ときっぱりとした返事。

 「じゃあ、お母さんは?」と聞くと
「人!」と言います。

 「お母さんも○くと一緒で、『人』じゃなくて男なんじゃない?」と聞くと、
「ちがう。人!」と断言。

 お母さんは男ではない、という部分は揺るぎませんが、
お母さんは女である、というところはなかなか出てきませんでした。

 強引でしたが、
「○君は、男だけど『人』じゃないなら、ねこなの?」と聞くと、
「違う、人だよ。」というので、
「じゃあ、○君は人で、男なんだね!」というと
「そうだよ~」と屈託のない返事が返ってきます。

 「じゃあさ、お母さんは人で何なのかな?」と聞くと、
沈黙していました。

 「○君は『人で男』、お母さんは『人で何かな?」と聞いて、
『おんなー」という言葉が出てきました。

 このやり取りをしながら、
この子どもの中では、「人」という分類と「男女」という分類が、
同じ高さにあって、分類されていないのかもしれないかな?と感じました。

 同時に、「人」という全体から「男女」という部分に分けることが可能で、
また更に、「子ども」や「大人」など、
もっともっと細かい部分にも分けていくことが可能である…ということについては、
未知の世界かもしれません。

 このことが曖昧なままで、大人になると、
どうも、まわりとの話についてズレが生じたり、
こだわらなくていいところでこだわってみたり、
逆に、周囲が言わずもがなでやっていることを把握しにくかったりするように感じます。

 言葉の分類、全体と部分。
大事かもしれないなぁ、考えることでした。


 

 

冬休み。

2014-12-25 13:40:26 | 発達応援
 今日から学校に行っている子どもたちは冬休みですね。
夏休み、冬休み、春休みというものがなくなった、
社会人なりたてのとき、「ああ、もっともっともっと遊んでおくんだった!」と
思ったものです。

 一昨年の冬休みは、高校入試を控えた子どもが家にきて、
一緒に勉強をしました。

 その子どもは、勉強ができる、とは言えないものの全くできないわけではない。
ただ、宅習をきちんとやる習慣や提出物を忘れずに出すということが、
なかなかできない子どもでした。

 そして、日常生活において、ハサミやカッターを使うことが苦手で、
場に応じた対応や態度を取ることが苦手。
注意されると素直に応じるものの、
その実なぜ注意されたかはわかっていない、という子どもでした。

 なので、職員室で厳しく追及されて、
本人の顔がみるみるうちに吊り上がって緊張ではじけそうになったり、
学校内で奇行にはしったりしていました。

 中学校に上がってすぐから、その子の言動態度は目について、
色々な方向からの支援が必要ではないか、具体的な支援策を考えるためにも
発達の凸凹具合を専門の先生も交えて…、という話になりましたが、
「様子をみる」ということで、結局、中学3年生の夏まできてしまいました。

 夏休みが明けてから、高校入試まで4ヶ月。
どんな高校を選ぶのかに、子どもも親も先生も揺れに揺れ、
普通高校に行くと決めて、本格的に勉強をはじめました。

 私がその子と取組んだことは、
冬休み明けて、すぐの実力テストで5教科で合計200点以上取るということを目標に、
基本問題を落とさない、
得意教科で苦手教科分もフォローするだけの点数を取る、
自分で見直しができるようになること。

 さらに、高校に入学してからのことを考えて、宅習を3ページ以上毎日すること。
これは高校でノートを取るスピードについて行くためと
赤点を取ったときに、課題として与えられたものを、
こなせるだけのスピードを付けるための練習も兼ねていました。

 そういうことを学校の日の放課後と冬休みを使ってやり、
高校入試の直前まで、来る日も来る日も続けました。

 根がまじめな子どもなので、友だちに唆されて怠けそうな日もありましたが、
こちらがそれを察知して、
今、なぜ、あなたにはこういう勉強が必要かを話した日も
何度かありました。

 冬休み明けのテストで、自己最高の合計点で、
充実した満足げな顔でもらいたての成績表を見せにきてくれたときは、
こちらも一緒に抱き合って、跳ねて喜びました。

 私のしていることは、
おせっかいか、過干渉かなぁとの思いもあったので、
その子の嬉しそうな顔を見て、心から良かったと思ったのでした。

 学校は、学校のシステムの中で、流れに乗れる子どもにとっては、
苦もなく、普通に通り過ぎる場所です。

 でも、少しでも学校のシステムに合わない子どもがいた場合、
なかなか、個々の担任の先生だけの思いで、動ける場所ではなくなるように思います。

 学年の先生方に話をおろす、特別支援の話し合いに事例を出す、
教頭、校長が話を判断する、保護者の方に話をする、再び、学年で云々。
そういうことをしている間に、あっという間に一学期が終わり、
気がつけば、学年が終わる、ということになります。

 家での気づき、学校での気づきがスムーズに話し合うことができて、
子ども本人の凸凹の差を小さくすることが、スムーズにできると、
中学3年の4ヶ月でどうにかなるか、ならないか、の綱渡りをしなくても済むのになぁ、と
思うことです。

聞くこと。

2014-12-24 19:42:35 | 発達応援
 今日、ふと、カレンダーを見ると、
来週の今日は、大晦日!
マジか!と掃除をする手も急ぎがちです。

 聞くこと、についての本を読みながら、
私は、人の話を聞けているのかな、と考えることです。

 職場でも観察していると、
とにかく、相手の話を「んんっ?」と思うことがあっても聞く人。
相手の話が、少しでも自分の意見と違いそうだと間髪入れずに意見を言い出す人。
相手の話に疑問点があると、反論はせずにとにかく、疑問を解消しようと質問攻めにする人。
聞いているのか、聞いていないのかわからない人。

 私自身は、「んっ?」と思っても最後まで聞くものの、
その疑問点を聞きそびれて、自分なりの解決法を考えるしかなく、
それで良かったんだっけ、と呆然とするタイプです

 聞き方に、良い、悪いがあるのか、ないのかわかりませんが、
話の内容を正確に掴めない聞き方は、やはり問題があるかなぁ、と思います。

 それは勉強や仕事云々のためだけでなく、
自分で生きていく上で必要なことだと思います。

 文字を書いたり、文字を読んだりすることも大切です。
同じくらいに、友だちと話したり、遊んだりするためにも、
そして、よりラクに生きて行くためにも、
聞く力も育んでいかねばならないなぁ~と、
ちょっと、職場で考えたのでした。
 



様々な読む。

2014-12-23 16:55:25 | 発達応援
 風のない、気持ちのいい一日です。

 本を読みながら、
ふとした瞬間、なんだか内容がとんで、
数回同じ行を読むことがあります。

 中学校で支援員をしていたときに、
支援クラスの国語のテスト監督をしていました。
テストを受けていた子どもは、問題文を一度読んで、
その後、問題を解くときに、一度も問題文を読み返すことはしません。

 ときどき、「本文より抜き出しなさい。」という問題があっても、
目をパチパチパチとしながら、空中を見つめて、
本文を思い出すような感じで空中を指でなぞるような動きをして、
その後、抜き出す文章を書きはじめていました。

 思い出すことができないと、
ちょっと苦しそうな表情で、一生懸命思い出そうとしているのですが、
本文をもう一度読むという行動は起こしませんでした。

 「もう一回、本文読んでみたら?」とうながしてみましたが、
不思議そうなきょとんとした顔をして、読み直すことはありませんでした。

 テストが終わってから、
「○○くんは、本文一度読んだら、覚えているの?」と聞くと、
「覚えているのかな?浮かぶのかな?」と不思議な答えがかえってきました。

 「もし、本文を忘れたなぁ~、と思ったら、何回読んでもいいんだよ。」というと、
「何回読んでもいいんですか、わかりました。」と言っていました。

 その後、何回かテスト監督をすることがありましたが、
本文を読み返すことは、なかったように記憶しています。

 今考えると、記憶力が良いと言うとか、
本文を写真のように頭に入れることができたのだと思います。
それはそれで、その子どもの長所だったのでしょうが。

 長い時間、頭の写真の巻物をたぐり寄せる時間を
他のことに振り分ける手助けができたら良かったかもしれないなぁ、と
思うことでした。

 

正しいけどね。

2014-12-22 22:04:42 | annonへの道のり
 今日は冬至ですね。
南瓜を甘く煮て、食べました。ゆず湯もはいります。
クリスマスやバレンタインデーよりも、
日本のこういうちょこまかした行事を楽しく思えるお年頃です。

 本屋さんで、どこかの子どもさんがお母さんに、
「お母さん、レット、イット、ゴーが載ってるよ!」と
喜々とした顔で駆けよっていました。
まだ、幼稚園生かな、というくらいの女の子でした。

 お母さんは、
「楽譜読めるのぉ?読めればね!」と強い調子で言い放ち、
子どもを置いて、別のコーナーに行ってしまわれました。

 残された女の子は、
「えーっと、ミでしょう~」と楽譜に釘付けで音符を読んでいるようでしたが、
お母さんはもう、だいぶ遠くに行っています。

 やはり、本屋さんで、
「この本、図書室にあったけど、○○ちゃんは持ってるんだよ、いいなぁ。」
と女の子。

 「この前の、もう読んだの!?読むのね?」
と詰問し、去って行くお母さん。

 嘆息する女の子。

 どちらのお母さんも、おそらく、日常の我が子の状態がわかっているから、
適切に対処されているのだと思います。

 正しいことをされているのに、
私には、なんだか、お母さんの正しい意見に賛成だなぁ、小さい人たち!
という気持ちになれませんんでした。

 大人が言い離して、去る感じが買ってあげないにしても、
子どもの気持ちのやり場がない、
ちょっと、ざらっとした感じで嫌だったのだと思います。

 正しいけど、ねぇ。
そんな気持ちを抱いた出来事でした。