「池上さん、日本の英語教育は不足していませんか?」
Q いまに始まった議論ではありませんが、私は日本人がもっと英語を話せるようにしなくては、グローバル化から取り残され、世界での存在感を失っていくような気がします。小学校から英語や英会話をもっと授業で取り入れるべきではないでしょうか。子どものうちに外国語を耳にしていると、身につきやすいように思います。仕事柄、アメリカで出会う他国から来た留学生は、高校生であっても、多少アクセントに問題があるものの、「会話」ができています。日本で高校生のレベルではとても考えられない語学力です。(50代・女・医師)
A お気持ちは大変よくわかります。ですが、私は「小学校から英語教育」という主張に懐疑的なのです。
アメリカに海外からやってくる留学生の英語が流暢なのは、その国での高等教育が英語で行われていることが多いからだと思います。とりわけ開発途上国では、高等教育を自国語で受けることができないからです。日本も明治維新以降、当初は「お雇い外国人」に英語などで高等教育を受けていました。しかし、「日本語で高等教育が受けられるようにしたい」という思いから、学術用語をひとつひとつ日本語に置き換える努力が行われました。その結果、当時の発展途上国としては例外的に高等教育が自国語で受けられるようになったのです。
ところが、英語力が身につかないという副作用を生みました。それでも、日本の英語教育は、なかなかのレベルだと思います。問題は、「英語で何をしゃべるか」だと思うのです。外国からの留学生は、自分の主張を持っています。発言したいことがいっぱいあるので、必死になって英語を駆使します。ところが日本の若者たちは、自己主張することがあまりありません。あるいは国際問題や文化交流、芸術、哲学など考えたことがないため、発言する内容を持っていないのではないでしょうか。問題は「しゃべる内容」を持っているかです。「なんとしても相手の国の人に知ってもらいたい」「自分の意見を伝えたい」という熱き思いがあれば、中学・高校までの英語力を駆使して、しゃべることができるようになると思うのです。
小学校で英語を教えるのもいいですが、その結果、たとえば国語の授業数にしわ寄せがきてしまったら、意味がありません。まずは自国語でものを考え、自己主張できる人間を育てるべきだと思うのですが。
(文春オンライン 池上さんに聞いてみた 2017年6月20日)
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本学特任教授の池上彰先生の英語教育に関する考えが分かる一文を紹介しました。基本的に池上さんの主張に私は賛成です。最近大学業界では,国際教養学部ブームで,すべて英語による授業で構成されるカリキュラムが絶賛されています。グローバル化への優れた対応というわけです。しかし,私はそうは思いません。そもそも自国語で先端的な高等教育を展開できる国が世界にどれほどあるでしょうか。日本はその数少ない国の一つとしてどっしりと存在しています。明治から大正期にかけて,自国語の高等教育を展開するために,先人たちは苦労を重ねました。それゆえに,自国語の授業よりも外国語の授業を評価する今の風潮におかしさを感じます。
明治時代,日本語の高等教育を初期的に展開した学校に東京専門学校があります。後の早稲田大学です。この開校時に示された理念は,つぎの通りです。すなわち,「一国の独立は国民の独立に基づく,国民の独立はその精神の独立に根ざす。国民精神の独立は実に学問の独立によるものであるので,その国の独立を維持しようとするならば,必ず先ずその学問を独立させなくてはならない」というものです。当時,帝国大学をはじめとして日本の高等教育機関では外国人教師による外国語の授業が当たり前でした。そのため,入学者には厳しい外国語の鍛錬が求められました。しかし,東京専門学校の創立者たちは,それは独立国の教育ではないと考え,日本語による高等教育の実現に奔走しました。
その他様々な教育者・研究者の努力で,欧米の先端的学問の諸概念・理論は日本語に置き換わりました。その結果,多くの学術研究分野,産業分野において,日本は世界の先端,もしくはそれを追いかける地位を獲得することができました。母国語で深い思考ができる教育が実現したおかげでしょう。
すべて英語による授業で構成されるカリキュラム(いわゆる英語を学ぶではなく英語で学ぶカリキュラム)においては,学生は日本語で考えるのではなく,英語の学問的概念を原文のまま受けとって,英語でそれを操作して思考し,英語で自らの主張を展開しなければなりません。それが本当に健全なことなのか。実際には,施光恒さんが『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(集英社,2015年)で指摘しているように,自ら植民地化教育を展開することに等しいのではないでしょうか。そもそも,学問的素養が身についていない学部学生でそんなことが本当にできるのでしょうか。かなり高い学力の学生は別にして,多くの学生は結局英語の会話を練習して終わるかもしれません。施さんが指摘するように,英語はそこそこ話せるけれども高度な思考はできないといった,安価で都合のいい現地雇いの労働者の量産にとどまる可能性があります。まさに植民地人材の輩出なのかもしれません。
大学どころか,小学校の英語教育によって,日本語による思考訓練がおろそかになるならば,本末転倒であることはいうまでもありません。
ちなみに,よく聞く言説に,「日本では,中学,高校,大学と10年近くも英語教育が行われるのに,英語をまともに喋れる人材を生み出すことができない。日本の英語教育に欠陥があるからだ」があります。しかし,英語教育の専門家は,日本人が英語が話せないのは,学習時間が圧倒的に少ないことが大きな原因であるといいます。母国語とは体系の全然違う他言語を習得するためには,高水準の努力を何年にもわたって傾けなくてはならないのに,日本の生徒や学生の大半は週に3日ほど授業に出席するのみの英語学習しかしません。授業以外で英語に触れる機会は,試験前の勉強を除けばほとんどありません。学校の外で日常的に英語に触れる場面はほとんどないのです。
また文法中心の日本の英語教育が酷いと盛んに喧伝されてきました。しかし,英語教育の専門家に言わせると,体系が全然違う外国語をある程度の年齢の人物が学ぶには,文法を避けることはできないそうです。私の知り合いの英会話教師(アメリカ人)は,日本人の英会話学習者は英文法を軽視しすぎると嘆いていました。単語をとにかくでたらめにでも並べれば話が通じると思い込んでいる日本人が多いと。
私は仕事上英語の専門書や論文はよく読んでいます。また,今でも不得意な英会話の学習を少しづつ進めています。大学生は英語をはじめ外国語をきちんと学ぶべきであると感じます。ただ,池上さんがいうように,日本人大学生にとって何より重要なのは,主体的に日本語で深く思考できるようになることです。さらに,日本語で論理的に主張を展開できるようになることです。それに付随して,外国語(英語に限らず)によるコミュニケーションを学べばよいでしょう(会話だけでなく,読み書きも含む)。そのうえで,異文化を知り,広い世界を見渡せる人材になることを目指せばよいでしょう。
Q いまに始まった議論ではありませんが、私は日本人がもっと英語を話せるようにしなくては、グローバル化から取り残され、世界での存在感を失っていくような気がします。小学校から英語や英会話をもっと授業で取り入れるべきではないでしょうか。子どものうちに外国語を耳にしていると、身につきやすいように思います。仕事柄、アメリカで出会う他国から来た留学生は、高校生であっても、多少アクセントに問題があるものの、「会話」ができています。日本で高校生のレベルではとても考えられない語学力です。(50代・女・医師)
A お気持ちは大変よくわかります。ですが、私は「小学校から英語教育」という主張に懐疑的なのです。
アメリカに海外からやってくる留学生の英語が流暢なのは、その国での高等教育が英語で行われていることが多いからだと思います。とりわけ開発途上国では、高等教育を自国語で受けることができないからです。日本も明治維新以降、当初は「お雇い外国人」に英語などで高等教育を受けていました。しかし、「日本語で高等教育が受けられるようにしたい」という思いから、学術用語をひとつひとつ日本語に置き換える努力が行われました。その結果、当時の発展途上国としては例外的に高等教育が自国語で受けられるようになったのです。
ところが、英語力が身につかないという副作用を生みました。それでも、日本の英語教育は、なかなかのレベルだと思います。問題は、「英語で何をしゃべるか」だと思うのです。外国からの留学生は、自分の主張を持っています。発言したいことがいっぱいあるので、必死になって英語を駆使します。ところが日本の若者たちは、自己主張することがあまりありません。あるいは国際問題や文化交流、芸術、哲学など考えたことがないため、発言する内容を持っていないのではないでしょうか。問題は「しゃべる内容」を持っているかです。「なんとしても相手の国の人に知ってもらいたい」「自分の意見を伝えたい」という熱き思いがあれば、中学・高校までの英語力を駆使して、しゃべることができるようになると思うのです。
小学校で英語を教えるのもいいですが、その結果、たとえば国語の授業数にしわ寄せがきてしまったら、意味がありません。まずは自国語でものを考え、自己主張できる人間を育てるべきだと思うのですが。
(文春オンライン 池上さんに聞いてみた 2017年6月20日)
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本学特任教授の池上彰先生の英語教育に関する考えが分かる一文を紹介しました。基本的に池上さんの主張に私は賛成です。最近大学業界では,国際教養学部ブームで,すべて英語による授業で構成されるカリキュラムが絶賛されています。グローバル化への優れた対応というわけです。しかし,私はそうは思いません。そもそも自国語で先端的な高等教育を展開できる国が世界にどれほどあるでしょうか。日本はその数少ない国の一つとしてどっしりと存在しています。明治から大正期にかけて,自国語の高等教育を展開するために,先人たちは苦労を重ねました。それゆえに,自国語の授業よりも外国語の授業を評価する今の風潮におかしさを感じます。
明治時代,日本語の高等教育を初期的に展開した学校に東京専門学校があります。後の早稲田大学です。この開校時に示された理念は,つぎの通りです。すなわち,「一国の独立は国民の独立に基づく,国民の独立はその精神の独立に根ざす。国民精神の独立は実に学問の独立によるものであるので,その国の独立を維持しようとするならば,必ず先ずその学問を独立させなくてはならない」というものです。当時,帝国大学をはじめとして日本の高等教育機関では外国人教師による外国語の授業が当たり前でした。そのため,入学者には厳しい外国語の鍛錬が求められました。しかし,東京専門学校の創立者たちは,それは独立国の教育ではないと考え,日本語による高等教育の実現に奔走しました。
その他様々な教育者・研究者の努力で,欧米の先端的学問の諸概念・理論は日本語に置き換わりました。その結果,多くの学術研究分野,産業分野において,日本は世界の先端,もしくはそれを追いかける地位を獲得することができました。母国語で深い思考ができる教育が実現したおかげでしょう。
すべて英語による授業で構成されるカリキュラム(いわゆる英語を学ぶではなく英語で学ぶカリキュラム)においては,学生は日本語で考えるのではなく,英語の学問的概念を原文のまま受けとって,英語でそれを操作して思考し,英語で自らの主張を展開しなければなりません。それが本当に健全なことなのか。実際には,施光恒さんが『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(集英社,2015年)で指摘しているように,自ら植民地化教育を展開することに等しいのではないでしょうか。そもそも,学問的素養が身についていない学部学生でそんなことが本当にできるのでしょうか。かなり高い学力の学生は別にして,多くの学生は結局英語の会話を練習して終わるかもしれません。施さんが指摘するように,英語はそこそこ話せるけれども高度な思考はできないといった,安価で都合のいい現地雇いの労働者の量産にとどまる可能性があります。まさに植民地人材の輩出なのかもしれません。
大学どころか,小学校の英語教育によって,日本語による思考訓練がおろそかになるならば,本末転倒であることはいうまでもありません。
ちなみに,よく聞く言説に,「日本では,中学,高校,大学と10年近くも英語教育が行われるのに,英語をまともに喋れる人材を生み出すことができない。日本の英語教育に欠陥があるからだ」があります。しかし,英語教育の専門家は,日本人が英語が話せないのは,学習時間が圧倒的に少ないことが大きな原因であるといいます。母国語とは体系の全然違う他言語を習得するためには,高水準の努力を何年にもわたって傾けなくてはならないのに,日本の生徒や学生の大半は週に3日ほど授業に出席するのみの英語学習しかしません。授業以外で英語に触れる機会は,試験前の勉強を除けばほとんどありません。学校の外で日常的に英語に触れる場面はほとんどないのです。
また文法中心の日本の英語教育が酷いと盛んに喧伝されてきました。しかし,英語教育の専門家に言わせると,体系が全然違う外国語をある程度の年齢の人物が学ぶには,文法を避けることはできないそうです。私の知り合いの英会話教師(アメリカ人)は,日本人の英会話学習者は英文法を軽視しすぎると嘆いていました。単語をとにかくでたらめにでも並べれば話が通じると思い込んでいる日本人が多いと。
私は仕事上英語の専門書や論文はよく読んでいます。また,今でも不得意な英会話の学習を少しづつ進めています。大学生は英語をはじめ外国語をきちんと学ぶべきであると感じます。ただ,池上さんがいうように,日本人大学生にとって何より重要なのは,主体的に日本語で深く思考できるようになることです。さらに,日本語で論理的に主張を展開できるようになることです。それに付随して,外国語(英語に限らず)によるコミュニケーションを学べばよいでしょう(会話だけでなく,読み書きも含む)。そのうえで,異文化を知り,広い世界を見渡せる人材になることを目指せばよいでしょう。
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