教育界では過去30年様々な改革が行われました。その支柱の一つが,個性重視という考え方です。大学においても,個性重視のために,入試が改革され,カリキュラムがいじられました。
はたして本当に個性重視の教育が今実現できているのでしょうか。今後実現できるのでしょうか。私は懐疑的です。そもそも個性重視の教育改革が本当に必要なのでしょうか。
個人的見解ですが,教育機関で強調しなければ,個性が形成されないとは思えません。人は基本的にみな異なるDNAを持って生まれ,異なる生育環境の下で育ちます。その過程で自ずと個性的な人物になります。当たり前のことですが,個人個人はみな違っているのです。
個性重視教育の重要性を聞くたびに思い出すものがあります。クラシック音楽です。クラシック音楽では,演奏者は,過去の作曲家が作曲したものを,楽譜通りに演奏します。演奏者が勝手に編曲することは認められません。編曲があった場合には,まともな演奏とはみなされません。
作曲者の意図を探り,楽譜通りに弾くために,演奏者は徹底的な訓練を経験します。大半のクラシック音楽の楽曲は簡単に楽譜通りに弾けるものではありません。楽譜通りに弾くためには,かなり高いレベルの技量が演奏者に要求されます。演奏者の訓練の過程では,反復練習の連続です。同じフレーズ,同じ指使い,同じ姿勢を何度も何度も繰り返して叩き込みます。
徹底的な反復練習を経て,楽譜通りに演奏されるクラシック音楽。かつて私はこんなものは退屈だと思っていました。楽譜通りの演奏の場合,同じ曲ならば,どの演奏を聴いても同じだし,機械で奏でても同じではないかと思っていました。
しかし,生の本格的な演奏を何度も聞くうちに,その考えが間違っていることを悟りました。同じ曲であっても,演奏者(あるいは指揮者)が違えば,曲は違った表情を持つのです。まず,上手か下手かということが明確に出ます。そして,同じぐらいの技量の演奏でも,テンポが速い・遅い,音が固い・柔らかい,アクセントが弾んだ感じ・落ち着いた感じなど様々な点で異なるのです。演奏者の個性がきちんと出ているのです。
反復練習が個性を殺したりはしないのです。個性の重視などとわざわざ唱えなくても,クラシック音楽の演奏には明瞭に個性が表れています。クラシック音楽のファンはそれが面白くて,演奏会に通い,同じ曲の演奏者違いのCDをコレクションします。
商学部のようなビジネス系学部でも,部分的に,以上と同様の考え方を捉えてもいいのではないでしょうか。とくに,知識の獲得のため,学生が反復学習することを重視すべきではないかと思っています。大学であっても必要なのではないかと思うのです。
個性などは自ずと表出するのだから,それよりも,社会で要求される知的能力を学生が持てるように訓練するほうが重要だと思うのです。そのためには,反復学習によって知識の記憶を課すこともありうるでしょう。これは,近年の教育界ではつめこみ学習として忌み嫌われている手法に関連しています。つめこみ学習の概念はあいまいですが,私には,反復学習によって,知識を覚えさせることは,それほど酷い教育手法とは思えません。
知識のつめこみが創造性を(そして個性も)削ぐというような言説がありますが,少々疑問です。創造性の発露であるイノベーションは,既存要素の組み合わせから生まれるということは,経営学・経済学ではよく知られています。個人にとっては,創造のためには,頭脳の中に,組み合わせるための要素がある程度なければなりません。つまり,一定レベルの知識がつまってなくては,組み合わせの起きようがないのです。創造力を身につけさせるためには,反復学習による知識記憶は不可欠だと思います。
十分な知識記憶がないと,ボキャブラリーが貧困になり,複雑な事象に関するコミュニケーションが難しくなります。ビジネス界で重要なコミュニケーション能力を養成するためにも,ある程度の知識のつめこみは必要だと思います。
近年の教育改革論議には虚しさを感じています。逆張りの教育改革が必要だと思う昨今です。
はたして本当に個性重視の教育が今実現できているのでしょうか。今後実現できるのでしょうか。私は懐疑的です。そもそも個性重視の教育改革が本当に必要なのでしょうか。
個人的見解ですが,教育機関で強調しなければ,個性が形成されないとは思えません。人は基本的にみな異なるDNAを持って生まれ,異なる生育環境の下で育ちます。その過程で自ずと個性的な人物になります。当たり前のことですが,個人個人はみな違っているのです。
個性重視教育の重要性を聞くたびに思い出すものがあります。クラシック音楽です。クラシック音楽では,演奏者は,過去の作曲家が作曲したものを,楽譜通りに演奏します。演奏者が勝手に編曲することは認められません。編曲があった場合には,まともな演奏とはみなされません。
作曲者の意図を探り,楽譜通りに弾くために,演奏者は徹底的な訓練を経験します。大半のクラシック音楽の楽曲は簡単に楽譜通りに弾けるものではありません。楽譜通りに弾くためには,かなり高いレベルの技量が演奏者に要求されます。演奏者の訓練の過程では,反復練習の連続です。同じフレーズ,同じ指使い,同じ姿勢を何度も何度も繰り返して叩き込みます。
徹底的な反復練習を経て,楽譜通りに演奏されるクラシック音楽。かつて私はこんなものは退屈だと思っていました。楽譜通りの演奏の場合,同じ曲ならば,どの演奏を聴いても同じだし,機械で奏でても同じではないかと思っていました。
しかし,生の本格的な演奏を何度も聞くうちに,その考えが間違っていることを悟りました。同じ曲であっても,演奏者(あるいは指揮者)が違えば,曲は違った表情を持つのです。まず,上手か下手かということが明確に出ます。そして,同じぐらいの技量の演奏でも,テンポが速い・遅い,音が固い・柔らかい,アクセントが弾んだ感じ・落ち着いた感じなど様々な点で異なるのです。演奏者の個性がきちんと出ているのです。
反復練習が個性を殺したりはしないのです。個性の重視などとわざわざ唱えなくても,クラシック音楽の演奏には明瞭に個性が表れています。クラシック音楽のファンはそれが面白くて,演奏会に通い,同じ曲の演奏者違いのCDをコレクションします。
商学部のようなビジネス系学部でも,部分的に,以上と同様の考え方を捉えてもいいのではないでしょうか。とくに,知識の獲得のため,学生が反復学習することを重視すべきではないかと思っています。大学であっても必要なのではないかと思うのです。
個性などは自ずと表出するのだから,それよりも,社会で要求される知的能力を学生が持てるように訓練するほうが重要だと思うのです。そのためには,反復学習によって知識の記憶を課すこともありうるでしょう。これは,近年の教育界ではつめこみ学習として忌み嫌われている手法に関連しています。つめこみ学習の概念はあいまいですが,私には,反復学習によって,知識を覚えさせることは,それほど酷い教育手法とは思えません。
知識のつめこみが創造性を(そして個性も)削ぐというような言説がありますが,少々疑問です。創造性の発露であるイノベーションは,既存要素の組み合わせから生まれるということは,経営学・経済学ではよく知られています。個人にとっては,創造のためには,頭脳の中に,組み合わせるための要素がある程度なければなりません。つまり,一定レベルの知識がつまってなくては,組み合わせの起きようがないのです。創造力を身につけさせるためには,反復学習による知識記憶は不可欠だと思います。
十分な知識記憶がないと,ボキャブラリーが貧困になり,複雑な事象に関するコミュニケーションが難しくなります。ビジネス界で重要なコミュニケーション能力を養成するためにも,ある程度の知識のつめこみは必要だと思います。
近年の教育改革論議には虚しさを感じています。逆張りの教育改革が必要だと思う昨今です。
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