アメリカン・ブルーです。
母は、ここが山といわれた日から、
山を越え、次の山も越え、その先の山も越えて、
ここの景色が良いかな・・・
そこに流れる安らかな川を、向うへ渡って行ったかのように想います。
ご報告が大変遅れましたが、
去る9月18日、その生涯を終えました。
享年88歳でした。
皆さまには折々ご心配を頂きまして、ありがとうございました。
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盛岡はいまナナカマドの赤い実が青い空に映えておりました。
「ナナカマド」と言えば、
三浦綾子の小説には欠かせない北国に生息する木ですが、
母からもよくその名前を聞いたものです。
樺太の壮絶な冬景色の中にも、その木は負けることなくあったのでしょうか・・・
母は、昭和5年に「樺太」・・・
今でいうところのサハリンで生まれました。
家は、材木や毛皮を扱う仕事で、裕福な暮らしだったようで、
ひとりひとりに「ねえや」と呼ばれる、お手伝いさんが付いていたそうです。
6人兄妹の下から2番目・・・
一番長生きしたのが母でした。
戦争がそんな母の生活を一変させて、
15歳で樺太から引揚船に乗って、北海道の留萌へ辿り着いた時には、
3艘だった船の前も後ろも爆撃され、自分が乗った船だけになっていたと・・・
しけで揺れる船の真っ暗な船底の想いは、長く母を苦しめたようでした。
ある日、私が母に、
「人生、戻れるなら何歳まで戻りたい?」
そう尋ねると、母は「40歳くらいかな~」そう答えました。
当時、私は14歳まで戻りたいと思っていたので、
その答えは理解しがたかったのですが、
近年、私ももしかしたら、同じように答えるような気がします。
私は大学へ入った年(母・44歳)から家を離れましたので、
母にも小さな自由が生まれ、
その頃から始めた煎茶道に邁進して、
苦しかった前半の人生を新しい色に染め替えていたのでしょう。
茶道協会から「荷葉」と言う名前を頂いておりました。
「荷」と言う漢字は、ハスのことで、蓮の葉と同じ意味になるそうです。
その二文字が入った戒名にも、母の半生が映されていると思いました。
父を見送って4年・・・
期せずして二人は同じ歳で旅立ちました。
姉は、母がたくさんの山を越えている間、ずっと、
懐かしい顔の故人たちが毎晩夢に総出演だったと話します。
私は、どういう訳か、そういう夢をほとんど見ない人で、
その代わりに、父も母も亡くなる前日にやって来て、
父は私がパソコンに向かっていたテーブルの向う側に座り、
もともと無口な人だったのでただしばらく佇んで、
母は、「ルナが傍に来た?」と思ったほど温かく私の身体に寄り添いました。
遠く離れた娘に、会いに来た両親でした。
別れは辛いものですね。
また、母親との別れは・・・・想像を超えて重いものでした。
何かの折に、母の思い出話を書かせていただきながら、
それを供養にしつつ、過ごしてゆきたいと思います。
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季節は彼岸花の頃・・・
その秋色に母を偲ぶ年月になりそうです。