アメリカン・ブルーです。
東日本大震災から5年の歳月が流れ、
3月11日は祈りの日となりました。
昨夜、震災の日のあの「満天の星空」を思い出し、
夜中にそっとカーテンを開けて外を見ました。
空は曇って星は無く、その代わりに、昼間には無かった白い雪が降りていました。
それは今朝もまだ残っていて、
振り返ると、去年も、一昨年も、3月11日の写真は雪景色でした。
ブログのサイドバー「カテゴリー・東日本大震災」への投稿も、
1年一回となってしまいましたが、
今でも、折に触れ、あの日、あの時のことは、
夫との会話にはよく登場し、忘れられない記憶の日は今も変わりません。
今日は、比較的穏やかで、午後には公園の雪も消え、
2時46分には、ルナと一緒に合掌し、
震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたしました。
5年と言う時間が
長かったようにも、あっという間だったようにも、
私はその結論には行き着けません。
振り返ってみると、その間に、仙台→福島→仙台→東根→秋田
その時その時の想いがそこにあるような気がします。
先日、名取の友人と電話中に電話の向うから「地震」とわかる音が聞こえてきて、
「大丈夫?」
そこから1分ほどして、微かに何かを感じる程度の揺れが秋田へ伝わってきました。
名取は震度4。
今でも、そうして余震は襲ってくるのです。
この5年・・・それは被災地にとっては休むことが無い切なさです。
とりわけ、この秋田市は、地震に穏やかな街で、
ここに居る1年半は、ともすれば震災を忘れそうにもなる・・・
申し訳なさがあるのです。
毎年、この日にしていることは、
2011年3月11日前後の自分のブログを読み直すことです。
コメントのお返事をしていないその日々ですが、
私にとっての「貴重なお気持ち」をできるだけ長く心に科して、
記憶に残しておきたいからです。
私ばかりではなく、ルナと夫の心配も沢山していただいて、
被災地だけではなく、日本中の方々の心にも傷を深く残したあの日だったと思います。
改めまして、
ご心配ありがとうございました。
今日も、ルナと私は元気です。
夫は、帯状疱疹・・・未だ苦戦中ですが、
昨日も病院でブロック注射をしてもらい、
峠は越したかに見えますが、痛みはなかなか手ごわいものです。
仙台→福島→仙台→東根→秋田と移り住まわれたんですものね。
いろいろな場所におられたからこそ、またここそこでの想い、その場所からの「あの時への想い」がおありかと思います。
5年は本当にあっという間でしたが なにごともなかったかのような場所もあれば なかなか変わっていけない場所もあろうかと思うと
本当に切ないです。
今年は曜日まで同じ金曜にかさなったので、なんだかちょっと仕事しながらも落ち着かない感じがしています。
私の今の職場は震災で壊滅状態となり 建物を建て替えました。
私は引っ越し後おちついてからの着任でしたので 私にはただ新しい心地よい建物、という印象でしかありませんが
携わった方々は大変な想いをされたかと思います。
今日は仙台市内の小学校は給食はやめて、お弁当を持参させたとか、内容に制約があるかどうかは知りませんが
何か意味あることとなるのでしょうか、、ちょっと疑問です。
いずれにしても
つらい事であつただけに何年たっても いつまでもあの時の事、忘れずに過ごしていかなければいけませんね。
パパさん、まだ痛みが続いておられるのですね。
早くよくなりますように!!
何年経っても、あの日の事は思い出すと苦しくなりますね。
それは環境が変わっても年齢が加算されても・・・
変わらずの想いです。
今日、秋田市内の学校では、災害用のレトルト保存食が給食に出されて、
それは分量も少なめで・・・子供たちはそれを体験したとニュースで流れておりました。
5年と言う歳月を通して、色々なことを想定した体験がなされているのかもしれませんね。
帯状疱疹・・・こちらもなかなか手ごわい。。。
ひとつ、ストレスが解決したので、ここから治りが進むかもしれません。
いつもありがとう。
3月16日アメリカンブルーさんの記事から
「 昨夜、パパさんが持って帰ってきてくれた、398円のお弁当!
これ、食べていいの?って、思わず躊躇してしまうような、何日ぶりかのおかずの入った夕飯を採ることが出来ました。
お腹がびっくりしないように、静かにゆっくり食べました。
人参と玉子焼きはルナにも分けてあげました。
いままでの自分の生活をいっぱい反省しながら、この晩餐に深い感謝でした。」
もうずっと
大きな地震にあっていない愛知県
僕自身も小学生の頃に震度4を体験したきりです
アメリカンブルーさんのこの言葉を教訓として
記憶に残したいと思います。
5年前にさかのぼって読んでくださったんですか・・・
ありがとうございます。
あの日は、確か、夫の会社でお弁当を販売しようとしていたのですが、
店内が立て直せないので外での販売を予定していたところ、原発の事があって。。。
外での販売が出来なくなってしまい、せっかくのたくさんのお弁当を用意したのでしょうに・・・残ってしまい、
それを持ち帰ってくれたような記憶です。
半分、次の日に残そうかと思っていたら、全部食べても大丈夫・・・
どこかで遭難したような気持ちだったのです。
私も、このお弁当の事は、今日も思い出しました。
ひとつずつ、喜びになって行くことは、前を向く「希望」だったような気がします。
そうなのですよね。
僕は東京なので、3月11日には報道に煽られるように、
記憶を呼び覚まします。
しかし、東北。
特に震源に使い方は、未だに余震を感じて、
爪あとは未だ現実に目の間にあるんですよね。
3月11日は特別なのかもしれないけれど、
震災への思いはあれから日常。
ブルーさんのブログに足を運ぶようになって、
被災地のとの温度差を感じて
また、考え方を改めたりしています。
このブログを訪れて良かったと思っています。
一歩一歩、色んな事が着実に癒えていくことをお祈りします。
思うように復興が遂げられていない事が、残念でなりませんが、故郷に帰れても、
人の気持ちの方が、中々、救われていない
いつになったら、しんから、平穏で、安らかな気持ちになれるのか・・・そんなことを思います。人の気持ちの方の回復がどれだけ大変か・・・。
3月11日のアメリカン・ブルーさんの記事を、
何度も、読み返し続けようと思います。
震災を経験することもなく九州に住んでいる私、段々大震災の記憶が風化して行っていることは否めないでいます。
イオンの黄色いレシート
今回は、全部東北の子供たちへの援助でした。
2時46分、町に、サイレンが鳴り響きました。
ご冥福を祈りつつ、震災に会われたすべての方たちに、エールを送りました。
少しづつ復興されてるかとおもいますが、人間としての心の復興が一番大変かと思ったりもしてます。
ママさんのあの日の記事を今も読みました。
お互いに必死でしたね。
こんな悲しいことは終わりにしたいですね。
パパさん、もう少し大変そうだけど峠を越された様で良かったです。
最後の絵文字?うふふっ♪
お返事が遅れました。
春先特有の三寒四温に負けました。。。
いつもの頭痛です。
不思議なもので、あの震災の年は、
気持ちが別のところ位あったからでしょうか・・・
頭痛も花粉症もどこかへ飛んで行って、
薬も無いままに何とか過ごすものだと、病は気からを感じたものでした。
やっぴえろさんにも、随分心配を頂いてきましたね。
忘れてはいけない記憶と、忘れた方が良いもの。
それらに線引きは難しいですが、少しずつ自分の中で整理する時期かなぁ~と思うこの頃です。
ブログを書いていたことを心から良かったと思えたのも、
実は、この大震災を経験した時だったかもしれません。
仙台市内、宮城県内、東北辺りまで、殆ど連絡がつかなくなって、
不思議だったのが、関東は、千葉に居る息子と埼玉に居るみちみちさんへは電話がつながったのです。
親戚には息子を通じて安否が伝えられ、
ブログにはみちみちさんが報告してくれておりました。
3月10日の投稿記事には、11日の午後2時46分以降
次々と心配のコメントが寄せられて・・・・
そこからをいつも読んでいると涙がこぼれます。
東北と縁もゆかりもなかった方々が、私を心配してくれていること、
今でも、秋田に居ても小さな地震にも心配してくれる方がおられます。
私の不安を気遣ってくれているんですよね。
オードリーさんも一緒にその記憶を読んでくれてまた来年までその気持ちを繋いでくださることを願っています。
黄色いレシートも役に立ってくれると良いですね。
3月11日は日本中の大事な記憶の日ですね。