あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

イタリア映画「道」を見て

2011-06-28 13:24:53 | インポート

雨が降り続いていましたが,今日は久しぶりに太陽の顔を見ることができました。明るい陽光を浴びていると,それだけで元気(エネルギー)をもらったような気がします。適度な雨降りと青空の広がる晴天とが交互にやってくる梅雨であったらいのになあと願っています。

先日,古い映画を二つ見ました。その一つが,「道」というイタリア映画で,1954年につくられたモノクロ映画です。主人公のジェルソミーナという娘の名前と哀愁を帯びたテーマ音楽は聞き覚えがあったのですが,映画そのものは初めて見ました。有名な映画ですので,見たことのある人はたくさんおられるのではないかと思います。

この映画の主要な登場人物は,3名です。貧しい家に生まれた娘ジェルソミーナは,口べらしのために,大道芸人(胸に巻きつけた鎖を胸の筋肉で断ちきる芸を演じます)のザンパノという男にお金で買われ旅に出ます。このザンパノが悪の象徴的な存在となり,旅の途中で出会った綱渡りの芸人(ザンパノとは旧知の間柄であったが,犬猿の仲)が,(ちょっと口が悪いため,ザンパノとはケンカ沙汰になりますが)ザンパノと対照的な善の象徴的な存在として登場します。

この映画の中で印象的だったのが,綱渡りの芸人がジェルソミーナに語る言葉です。

無器用で何も出来ない自分に,生きる意味はどこにあるのかと嘆くジェルソミーナに対して,彼はこう言います。<道にある小石だって役に立っている。すべては神様が必要と考えてつくられた世界の一つなのだ。小石だって,空の星だって,おまえだって,何かの役に立っている。> 

この言葉から,ジェルソミーナは自分の生きる意味に気づきます。自分をお金で買った乱暴者で自分勝手で誰からも愛されないザンパノではありますが,彼にとって自分は必要な存在であると考え,小石となって一緒に生きていくことを決心します。

しかし,ジェルソミーナのこの愛を,ザンパノは理解することができませんでした。さらに悪いことには,ザンパノが犬猿の仲だったあの綱渡り芸人を彼女の目の前で殴り殺してしまったのです。

この事実がジェルソミーナの心に大きな傷を与えてしまいます。殺された芸人をいつまでも気遣うジェルソミーナの言動に耐えきれず,やがてザンパノは彼女を置き去りにして逃げてしまいます。

数年後,サーカスの一員としてこの地に戻って来たザンパノは,かってジェルソミーナがラッパで吹いていたあのメロディを耳にします。そして,そのメロディを歌う女性から,ジェルソミーナの最期の様子を聞くことになります。

海辺で泣いていたジェルソミーナを,女性の父親が見かねて家へ連れてきた。しかし,ジェルソミーナは用意した食事に手をつけることもせず,泣きながらラッパを吹き,ある朝冷たくなっていたということを・・・。

映画のエンディングでは,夜の海辺で慟哭するザンパノの姿が映し出されます。ジェルソミーナが自分にとって,どんなに大切でかけがえのない存在であったかを,ザンパノはこの時になって初めて知ったのだと思います。

見終わった後に,あのもの悲しいテーマ曲とともにジェルソミーナの純粋で無垢な笑顔やしぐさが心に浮かんできます。何とも切ない それでも 心に残る 映画でした。

綱渡り芸人の言葉から,ある詩の一節を思い出しました。以前のブログで紹介した詩ですが,改めてその詩を書き出しておきます。

           小さな質問

                       高階 杞一 (たかしな きいち)

    すいーっ と 空から降りてきて

    水辺の

    草の

    葉先に止まると

    背筋をのばし

    その子は

    体ごと

    神さまにきいた

       なぜ ぼくはトンボなの?

    神さまは

    人間にはきこえない声で

    その

    トンボに言った

       ここに今

       君が必要だから

この詩のトンボが,ジェルソミーナと重なります。

この世に在るすべてのもの・すべての人々が,なくてはならない 必要とされる 大切な存在であるのだ ということを,改めて思います。

もう一つ見た映画が,1952年につくられたフランス映画の「禁じられた遊び」です。この映画の感想も,別の機会にブログで紹介したいと思います。