研修会でいただいたもう一つの資料(哲学者である鷲田清一さんの書いた)には,震災から3カ月たってからの『臨床哲学者』としての思いと考えが書かれていました。
特に心に残ったのは,~ 被災地では,いま,多くの人が「語りなおし」を迫られている。自分という存在,自分たちという存在の語りなおしである。~ という一節でした。語るのではなく,なぜ「語りなおし」なのか,その理由を,原文から引用します。
~子に先立たれた人,回復不能な重い病に冒された人,事業に失敗した人,職を失った人…。かれらがそうした理不尽な事実,納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け入れるためには,自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならない。人生においては,そういう語りなおしが幾度も強いられる。そこでは過去の記憶ですら,語りなおされざるをえない。その意味で,これまでのわたしから別のわたしへの移行は,文字通り命がけである。このたびの震災で,親や子をなくし,家や職を失った人びとは,こうした語りのゼロ点に,否応なく差し戻された。
~こうした語りなおしのプロセスは,もちろん人それぞれに異なっている。そしてその物語は,その人みずからが語りきらなければならない。……
~語りなおしは,苦しいプロセスである。そもそも人はほんとうに苦しいときは押し黙る。……
~語りなおすというのは,自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。だから当事者自らが語りきらねばならない。が,これはひどく苦しい過程なので,できればよき聞き役が要る。マラソンの伴走者のような。
さらに鷲田さんは,この語りなおしをよき聞き役となって聴くための難しさを次のように書いています。
~けれども,語りなおしは沈黙をはさんで訥々としかなされないために,聴く者はひたすら待つということに耐えられず,つい言葉を迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」と。……こうして,みずから語りきるはずのそのプロセスが横取りされてしまう。言葉がこぼれ落ちるのを待ち,しかと受けとるはずの者の,その前のめりの聴き方が,やっと出かけた言葉を逸らせてしまうのだ。……
それだけ,ひたすら言葉を待ち続けて聴くのは忍耐を必要とし,マラソンの伴走者のようなよりそう姿勢を持ち続けることが必要とされるのだと思います。
語りなおすことは,これまでの自分からこれからの自分へと旅立つ行為なのだと思います。いま背負っている重いものと真正面から向き合い言葉にすることの辛さ,さらにそこから乗り越え旅立とうとする苦しい胸の内に心をよせ,言葉がこぼれ落ちるのをじっと待つ。そんな聴き方が,求められているのだと思います。
~ いま「復興」を外から語る声は,濁流のなかでおぼれかけている人に橋の上からかけるような声のように響く。詩人の和合亮一さんがある対談のなかで,「自分は川の中で一緒におぼれないと何もいえない」というジャーナリストの声を引き,それこそ想像力であり,「川で一緒におぼれるのが詩なんです」と語っていた。濁流に入れなくても,濁流に入り込む想像力はもちうる。その想像力を鍛えておくことが,いまは必要だ。
鷲田さんは,いま,被災した人と被災しなかった人たちの間で,さらには被災した人たちどうしの間で,大きな隔たりが広がっていると感じています。その隔たりを埋めるために何より必要なことが,濁流に入り込んで被災した人たちの思いを想像し,その心によりそうことであると,伝えたかったのではないかと感じました。
語りなおすことの困難さと重さと向き合うことは,新たな人生を生きるために大切で必要なそして尊い行為なのではないかと思います。そのことを理解し,じっと言葉がこぼれ落ちるのを待ち続けて「聴くこと」の大切さについても,深く考えることができたように思います。
「語りなおす」ことと「聴く」ことは,人が人として生きていく上で 必要な どちらもはずすことのできない 大切な両輪なのかもしれません。