ある研修会でいただいた資料に,哲学者である鷲田清一さんの書いた文章がありました。読んでみて改めて,聴くことの難しさと大切さについて考えさせられました。
一つの資料<聴くという行為 と題する章の一節>には,末期医療の研究者が実施したアンケート調査のことが書かれていました。アンケートの一つに,次のような設問があり,それに対して5つの選択肢がありました。
<設問> 「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者のことばに対して,あなたなら
どう答えますか。
<選択肢> ① 「そんなこと言わないで,もっと頑張りなさいよ」と励ます。
② 「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。
③ 「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
④ 「これだけ痛みがあると,そんな気にもなるね」と同情を示す。
⑤ 「もうだめなんだ………とそんな気がするんですね」と返す。
結果は,精神科医を除く医師と医学生のほとんどが①を,看護師と看護学生の多くが③を選び,精神科医の多くが⑤を選んだとのことです。
もし私だったら,多分①を選んでいたのではないかと思います。生きようとする強い思いを抱いてほしいと願い,励ます言葉をかけるのではないかと思います。
しかし,次に書かれてある文章を読んで,考えが変わりました。
~ 『聴く』というのは,なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば,ことばを受けとめてもらったという,たしかな出来事である。こうして患者は,口を開きはじめる。得体の知れない不安の実体が何なのか,聞き手の胸を借りながら捜し求める。はっきりと表に出すことができれば,不安は解消できることが多いし,もしそれができないとしても解決の手掛かりは,はっきりとつかめるものである。
~ 聴くことが,ことばを受けとめることが他者の自己理解の場を劈(ひら)くということであろう。じっと聴くこと,そのことの力を感じる。
~ わたしがここで考えてみたいこと,それがこの『聴く』という行為であり,そしてその力である。語る,諭すという,他者にはたらきかける行為ではなく,論じる,主張するという,他者を前にしての自己表出の行為でもなく,『聴く』という,他者のことばを受けとる行為のもつ意味である。
聴くという行為が,決して受動的な行為でなく,語り手が心を劈(ひら)く力になるということを知ることで,『聴く』ことの意味と大切さについて深く考えることができたように思いました。相手の心によりそうという行為も,その根本に相手のことばを確かに受けとめるという行為や姿勢が前提にあってできることなのではないかと思いました。
語るという行為は,ある意味で聴き手の心の扉をたたくという行為であるように思います。そして聴き手は,その段階で自らの扉を全開にして相手のことばや思いを受けとめていく。この扉を開いて受け止めるという行為が,聴くという能動的な行為なのかもしれません。
身近な家族をはじめとして,自分が接する他人とのかかわりの中で,相手のことばを『聴く』という行為に真摯に取り組んでいけたらと思います。そうすることで,『語る』ことばも,確かな形で相手の心に届いていくのではないかと思います。