先日の米国大統領選の結果や、先週末の兵庫県知事選の経緯を見るにつけ、「SNSの威力」によって、政治体制まで引っくり返せる時代がやってきたことを痛感いたしました。その「SNSの威力」というのは、当然ながら「スマホの威力」と言い換えることが出来ます。
それでは「スマホの威力」とは何か?
それは「世界と個人を直接結びつける力」であり、政治の世界で言えば「権力と国民一人ひとりを直接結び付ける力」であります。
古代ギリシャの民主政は「直接民主政」であり、「広場に集まる市民の合意」により重要事項が決定されていました。「広場に集まる市民の合意」というのは、当然ながら、その場の雰囲気に流されますし、勢いで右に行ったり左に行ったりするものなので、事実上、市民たちを仕切る指導者=執政官の力量こそが全てとなります。すなわち、強くて優秀で品格のある指導者をきちんと選べるかどうかで「直接民主政」の命運が決まるということ。
実際には、100年もしないうちに、古代ギリシャの民主政は「愚民政治」と呼ばれる時代に突入します。というのは、民主政を正しくリードする優秀な指導者が選ばれていた時代は簡単に終焉してしまい、財力や武力を背景に市民の合意形成を工作して「裏側で実質的な支配権を奪取する」=「僭主」と呼ばれる人間が統治する時代へ移ってしまったから。「直接民主政」という名の下に、「僭主」による独裁政治が行われるようになってしまったのです。
「直接民主政」というのは、一見すると望ましい民主政のあり方に思えますが、とても危ういシロモノであります。逆に「間接民主政」はけっこう柔軟で、結果的に安全な指導者を生みやすい仕組みだと言うことができます。
日本では、選挙で衆議院議員や参議院議員を選び、その議員たちの投票によって、国のリーダーである総理大臣が選ばれる。国民の意見や意識というのは、過熱しやすく左右にブレやすいものですが、選ばれた議員たちは「クールな判断」によって首班選挙に臨む。今回、過半数を取れなかった自公与党ではありますが、議会が第二党の立憲民主党から首班を選ばなかったのは、まさに国民の総意を反映させるように、各議員たちが「クールな判断」により行動したということ。これこそ「間接民主政の知恵」なのであります。
ところが、この仕組みがいよいよ働かなくなってきたのでは?と思わせたのが、先般の米大統領選と先週の兵庫知事選。この選挙は、どちらも「直接民主政」の仕組みです(米大統領選は、形式上「間接民主政」ですが、実質的には「直接民主政」です!)。
この2つの直接選挙、従来は、新聞や地上波TVなどの伝統的メディアが市民へ情報を伝えていました。伝統的メディアは、なるべく「中立」に、そして「正確」に、選挙に関する情報を発信する姿勢ですから、上記で申し上げた「間接民主政の知恵」の役割を担う存在でありました。これによって民意が過熱したり、左右にブレまくったりする事態を調整していた訳です。
それが、「スマホの威力」=「権力と国民一人ひとりを直接結び付ける力」によって、伝統的メディアの調整力が機能しなくなった。むしろ、「スマホの威力」を使って民意を直接動かし、従来の政治体制を変え始める「僭主」が出現し始めたように見えます。
ちなみに、トランプ氏は「僭主」ではなく、むしろ「スマホの威力」で民意を動かし「最高権力者」の地位を得た人であります。権力と個人を直接繋ぐ効果への先見性で勝利したので「僭主」と呼ぶのは失礼かもしれません。
一方、兵庫知事選では、前職の斎藤元彦氏を勝たせるべく「スマホの威力」を使って、事実も非事実も色混ぜながら民意を動かす「実験」をしていた輩が少なからず存在していました。(東京都知事選での石丸伸二候補を支援する動きも、この「実験」の範囲のように見えました)
このような行為によって政治体制を自らの思い通りにしようとする輩は、明らかに「僭主」と呼んで構わないと思います。「YouTube」などで、選挙結果を左右する意図をもって動画や記事を流す輩は、「選挙のインフルエンサー」として権力や金銭を得ようとしている輩であり、非常に危険な存在です。まさに「僭主」そのもの。
法的な規制が必要とまでは言いませんが、われわれ自身が「僭主」に躍らせられないよう自戒すべきと思います。