通勤電車に乗ると七割の人が携帯を見ている。今では当たり前に感じる光景だが、九十年代はどうだったか、思い出そうとしても正確には思い出せない。たぶん一割にも満たなかったと思う。たかだか二十年で世の中は大きく変わっているのだ。勿論、年齢によって時間の長さの感覚は違う、四十歳以下の人には二十年は長い時間でたかだかではないかもしれないが七十過ぎには、指呼の範囲なのだ。
ついこないだの九十年代が上手く思い出せないのは、記憶力の低下というより、変化が斑で記憶が上手く時系列で整理しにくい為だろうと思う。こうした時一番頼りなるのが記録なのだがそうばかりとは限らない。
実は天知る地知る己知るで、今年桜の会に出た人は必ず憶えているはずだ。あの人が居たは不都合?だから蓋をしている人が居るから、出てこないだけだ。十年前のこととなれば多少あやふやな部分も出てくるかもしれないが、自分のことで記念になることだからやはり記憶しているだろう。勿論、認知症になったり幽明境を異にすれば、記憶という記録は失われるわけで、紙や電子媒体に残しておかなければ事実を確認することは出来なくなる。
記憶力よりも思考力が大切なように思われる科学では記憶や記録が欠かせないのは自明のことで自然に受け継がれ積み上げられている。共有された思考や記憶はシュレッダーに掛けても消すことは出来ないからだ。実は個々の昼食に何を食べたかや会費がいくらだったかは記録しないと残らないけれども、科学から遠い政治でも共有された考え方や戦略は共通認識として残っている。都合が悪いと水掛け論で遁走するが、どういう考え作戦でそういうことをしたかはシュレッダーでは消えない。
なにが問題かと言えば、都合の悪いことはシュレッダーに掛ける掛けたことにしてしまう戦略を常套手段とすることで、それは消えようがない。それで十分、細かいことを追求すれば逃げおおすことも可能だし、枝葉末節に時間を取られてしまう。