八月になった。日本人に生まれて季節感を愛でることでは人後に落ちないと思っているのだが、昨日から八月、四季よりも細かく、一月二月・・と各月にそれぞれの思いと味わいがある中で、なぜか八月は特別だ。お盆があり夏休みの思い出があるせいもあるだろうが、恐らくそういうもの総てを包む八月の日差しに、自分父母祖父母を紡いで祖先の過ぎ越した日々が写ってるからのような気がする。
六十年の昔がまるで昨日のように思い出され、蝉の鳴き声に混じって幼友達や父母の声が聞こえる気がする。ふと気づいたのだが日本語の昨日よりもイエスタディには過ぎた日を連想させる力がありそうだ?。あるいは英語圏の人の方が歴史を今に生きている感覚が強いのかもしれない。
黄金の日々があったとすれば、それは小学校の夏休みだったような気もするが、古希ではなく今頻(コンピン)となった働く七十過ぎにも夏休みは貴重だ。正直に言えばなくてはならぬ骨休めで、少々息が切れてきている。今年も仕事からの逃避行で三泊四日の国内旅行を企てている。例年今年こそ庄内と思うのだが、鶴の一声東北は淋しいで、南下することにした。盛岡は良い街だったのだが、確かにそう言われれば関西人の妻にはどこか閑散として感じられたのかもしれない。果たしてどこへ行くかは後で写真をアップするので、あれあれと思われるだろう。人間は何らかのゆかりを手繰る生き物のようだ。