駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

王義之の印象

2008年08月25日 | 人物、男
 週末東京で年に一度の趣味の集まりがあった。一年振りの懐かしい顔と何人か新しい顔にも会えた。翌日曜日、いつもなら女房の買い物に付き合うのだが、今回はいつも読ませて頂いているブログで知った江戸博物館の「書の名宝展」へ出かけた。書などというと親戚友人一同、絵じゃないの(拙い絵を描くので)と驚くと思うが、王義之の蘭亭序を見逃すわけには行かない。どんなに字が下手でも書を愛でることは出来る。
 子供の頃、父に連れられて出かけ、座敷に通されると大抵床の間に書画の掛け軸が掛かっていた。父は必ず鑑賞し、読もうとした。読めることが多かったが、手こずることもあった。同席した兄は字が上手く人に頼まれて題字を書くほどになったが、残念ながら私は金釘流で、面目なくもお前の字は読めないと苦情を頂く始末だ。 
 王義之は書聖と聞いたせいか、気品ある端正な美しい字という印象が強く、自分には到底真似出来ない、儂は顔真郷好みだとか言ってきた。蘭亭序を目の前にして、王義之の印象が少し変わった。思っていたよりも自由闊達で度量のある字だった。あるいは自分が年を取って見方が変わったのかもしれない。気品ある端正な美しい字を見て、顔回のような人かなと勝手に思っていた。どうもそうではなかったらしい。力強くどこかに余裕のある感じがした。
 それにしても太宗は困った人だ。こういう時だけは誤魔化して真筆を隠し持っていた御仁が居てもいいのにと思う。
 摩訶不思議なことだが平成の世に1600年の時空を超えて、心豊かにして知性と感性に恵まれた書聖の息吹に触れられたのは至福のひとときであった。
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北京五輪奇妙な余韻

2008年08月25日 | 世の中
 北京五輪の幕が下りた。なんというか不思議な(国際スポーツ競技会のような国のお披露目のような)、爽やかさの乏しい巨大祭典だった。スポーツ評論家と同時に政治外交経済専門家にきちんと総括して欲しいと思う。

 競技では勝者はもちろん、善戦者も負けず美しかった。
 私に一番インパクトのあったのはボルト。疾風雷神斯くのごとし。渾身の200m、脳裏に焼き付いた。巨躯に愛嬌が垣間見え、きっと語り継がれてゆくだろう。

 今更であるが「強き者、汝の名は日本女子」。だったなと思う。今までは、いくらか互譲の精神で言ったのだが、今回は紛れもなく日本では女子が強かった。あるいは男が不甲斐なかったか。喜んでいいのか悲しんでいいのか、良いことか悪いことか、何とも言い難いが、ちょっと心配なことではある。
 
 星野ジャパン、反町ジャパン、マラソン棄権。選んだ人とコーチに大いに責任がある。長島傀儡ジャパンなどの仮装は唾棄すべき。再登板は善戦者のみにチャンスがある。星野反町は一昨日の監督をお願いする。

 平凡で特別な才能の無い者が言うことではないかもしれないが、単純明快な目標に向けて脇目もふらず努力するのと同じように、複雑多岐の日常を平凡ながら融通無碍に道を踏み外さず歩いて行くのも、銅メダルとまでは行かなくとも入賞くらいの価値はあると思っている。
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医療界は、でなくて、も

2008年08月23日 | 世の中
 福島県立大野病院の事件に関連し、医療界は閉鎖的だとか学閥の壁があるなどと、批判する記事を目にします。これは以前からしばしば云われていたことですので驚きませんが、一つ助詞が間違っているように思います。医療界も、が正確な表現でしょう。小さなことのようですが、事実を誤認させ、問題を他人事にしてしまう表現です。きちんとしたデータを持ち合わせませんが、職種別集団の中で医療界が突出して閉鎖的で学閥の壁が高いとは云えないと思います。
 専門性の高い職種では、どうしても専門用語が使われ、多少世間とは異なった習慣もありますので、実際以上に閉鎖的に映ると思われます。学閥もありますが、権勢拡大的な動きは少しづつ減っているのではないでしょうか。
 閉鎖性や閥は人間の社会や生物としての属性に関わる事柄で、簡単に解消できるものではありません。そこには当然光と陰の部分があり、陰だけを取り上げ、短絡的に駄目と糾弾すれば、専門的で細かいけれども重要なさまざまな手続きや特性が吹っ飛んでしまい、機能が削がれてしまいます。面倒でもきめ細かく実証的で建設的な論調をマスコミにお願いする所以です。
 町医者である私には医療界は閉鎖的でなく開けています。当院の患者さんは私を通して開かれた医療に接することができます。それは大切な町医者の仕事の一つです。
 町医者レベルでは学閥はほとんど感じません。「先生は・・だからスキーがお上手でしょう」。「いやー、それがその」。とか半畳を入れたりはします。大学よりもむしろ地元の中学高校の先輩後輩の方が物を言う感じです。
 親しくして頂いている先生方の出身大学はさまざまで、友人は結局気が合うか合わないかで決まってゆきます。当たり前のことですが。
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どうしてこんな見出し

2008年08月21日 | 医療
 「無罪に医師は安堵、遺族は涙」。どうしてこんな見出しを付けるのか。
 医師は安堵なんかしていまい。若い命が失われた時から、力及ばず無念で、申し訳ないと感じていると思う。落ち度が無くても、若い命が失われれば、執刀医はつらいはずだ。
 何人も働き盛りの患者さんを看取ってきた。助けようがない病態でも、遺族にお礼を言われても、自分が力不足に感じられ申し訳ない気持ちがするものだ。こうした私の経験から推し量った。
 若い命が突然失われた理不尽に怒りが込み上げるのは痛いほどわかる。良いこととは思わないが、誰かを一時的に恨みたくなるのも遺族によってはやむを得ないかもしれない。
 重症患者を診る医師は不幸な転帰となった患者さんの家族から恨みがましいことを云われた経験があるはずだ。そうした時、誰かを恨みたい気持ちを汲んで黙してきたと思う。しかし、刑事責任を訴えるとなれば別のことだ。一体どのような犯罪があったというのか。たとえ無罪になったとしても結果が思わしくないからと刑事責任を問われれば人間として医師として傷つき失うものは大きい。リスクの大きい患者さんや無理な要求をされる患者さんを避けるようになるのは当然だろう。リスクのある患者さんの多い診療科は敬遠される事態になる。いや、もう既にそうなってきている。
 「遺族は涙」。まるで恨みを晴らせぬ悔し涙と云わんばかりでないか。私ごときが忖度することではないかもしれないが、いかんともしがたい悲しさの涙だったかもしれない。
 この見出しからは何も生まれない。報道の見出しから、率直にに感じたことを書いた。
 私が医師だから医師寄りの感想に受け取られるかもしれない。そうしたつもりないが、それは読んだ人に判断して貰いたい。
 
 
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アップルパイの一切れ

2008年08月20日 | 世の中
 アメリカ北部のルート**沿いのレストランには大抵デザートにアップルパイがある。何度か食べてみた。素朴な味で最初の数口はおいしいが、かなりのボリュームで食べ終わる頃にはちょっと持て余すことが多かった。このアップルパイ、北中部アメリカでは単なる焼き菓子以上の存在で、帰郷した謹厳な男が相好を崩して手づかみで食らいつくようなイメージがある。レシペから纏わる話まで書けば立派にアメリカを語る本になるだろう。
 素人の私にも分かる経済の例え話にパイの分け前理論がある。労働者の収入を一切れのパイに例え、分け前を増やすには八切りのパイを六切りにするよりも、八つ切りのままでパイそのものを大きくする方が、現実的で実現しやすい、というような話だったと思う。これは人間通?の町医者には非常にわかりやすい。というのは極めて粗く云えば人間は欲望というエネルギーで動いており、相応の見返りが無いと力を出さないので、生産性を上げる有能な者はそれなりに遇した方が、結局みんなが潤うというわけだ。現実にはうまくゆかなかったコルホーズなどを見れば成る程と思わせる理論だが、有能と云うより狡賢い輩も大きな一切れを頬張っているようで、物事は簡単ではない。
 とまれ、この頃どうも際限なくパイを大きくするのは問題があるのがわかってきた。大きくなると不味くなるだけでなく毒性が出てくるのである。それとパイなど食べたことの無い人々まで俺にも一口と手を出してくるようになった。どうもこの理論は破綻を来していると素人目には見える。ではどう説明するか、どうすればよいかは皆目分からないが、人間を読み込んだ理論や方策でないと駄目だと町医者は診ている。
 もっともこの人間という存在は非線形どころか、魂の持ち主で誠に理不尽ときているから、読み込むのは容易ではなかろう。
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