週末東京で年に一度の趣味の集まりがあった。一年振りの懐かしい顔と何人か新しい顔にも会えた。翌日曜日、いつもなら女房の買い物に付き合うのだが、今回はいつも読ませて頂いているブログで知った江戸博物館の「書の名宝展」へ出かけた。書などというと親戚友人一同、絵じゃないの(拙い絵を描くので)と驚くと思うが、王義之の蘭亭序を見逃すわけには行かない。どんなに字が下手でも書を愛でることは出来る。
子供の頃、父に連れられて出かけ、座敷に通されると大抵床の間に書画の掛け軸が掛かっていた。父は必ず鑑賞し、読もうとした。読めることが多かったが、手こずることもあった。同席した兄は字が上手く人に頼まれて題字を書くほどになったが、残念ながら私は金釘流で、面目なくもお前の字は読めないと苦情を頂く始末だ。
王義之は書聖と聞いたせいか、気品ある端正な美しい字という印象が強く、自分には到底真似出来ない、儂は顔真郷好みだとか言ってきた。蘭亭序を目の前にして、王義之の印象が少し変わった。思っていたよりも自由闊達で度量のある字だった。あるいは自分が年を取って見方が変わったのかもしれない。気品ある端正な美しい字を見て、顔回のような人かなと勝手に思っていた。どうもそうではなかったらしい。力強くどこかに余裕のある感じがした。
それにしても太宗は困った人だ。こういう時だけは誤魔化して真筆を隠し持っていた御仁が居てもいいのにと思う。
摩訶不思議なことだが平成の世に1600年の時空を超えて、心豊かにして知性と感性に恵まれた書聖の息吹に触れられたのは至福のひとときであった。
子供の頃、父に連れられて出かけ、座敷に通されると大抵床の間に書画の掛け軸が掛かっていた。父は必ず鑑賞し、読もうとした。読めることが多かったが、手こずることもあった。同席した兄は字が上手く人に頼まれて題字を書くほどになったが、残念ながら私は金釘流で、面目なくもお前の字は読めないと苦情を頂く始末だ。
王義之は書聖と聞いたせいか、気品ある端正な美しい字という印象が強く、自分には到底真似出来ない、儂は顔真郷好みだとか言ってきた。蘭亭序を目の前にして、王義之の印象が少し変わった。思っていたよりも自由闊達で度量のある字だった。あるいは自分が年を取って見方が変わったのかもしれない。気品ある端正な美しい字を見て、顔回のような人かなと勝手に思っていた。どうもそうではなかったらしい。力強くどこかに余裕のある感じがした。
それにしても太宗は困った人だ。こういう時だけは誤魔化して真筆を隠し持っていた御仁が居てもいいのにと思う。
摩訶不思議なことだが平成の世に1600年の時空を超えて、心豊かにして知性と感性に恵まれた書聖の息吹に触れられたのは至福のひとときであった。