外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

メンフィス・ベル

2011-02-28 17:56:37 | 映画、テレビ、漫画
東京は雨の月曜日。

野球部は、本日の午後二時過ぎの飛行機で沖縄に向かいました。

心配になって沖縄の週間天気予報をチェックしてみたところ、向こう1週間は曇り空が続き、気温も20度前後とのこと。
この季節の沖縄は、通り雨もあって不安定な気候なのですが、今回のキャンプ前半は、まずまずの天気予報といって良いでしょう。

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さて、一昨年、アメリカ南部の都市、メンフィスを訪れました。
メンフィス訪問記事へのリンク

旅行を終えてメンフィス空港に着いた際、空港施設内に長距離爆撃機B-17の大きな写真が掲示してあって「メンフィス・ビル」という機名と、第二次大戦のヨーロッパ戦線での武勲が説明されていました。

事前知識を全く持っていなかった私でしたが、「メンフィス・ベル」という機名だけは、その時に記憶に刻みました

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先日、本屋さんをブラブラしていたら、「メンフィス・ベル」というタイトルのDVD(コスミック出版。500円)を見つけて記憶が甦り、さっそく入手しました。

1944年(昭和19年)4月にアメリカで公開されたドキュメンタリー映画です。
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イギリス本土の前線基地からドイツを渡洋爆撃する任務を担っていたB-17爆撃隊所属のメンフィス・ベル。

当時のアメリカ空軍には、爆撃機が25回出撃して帰還した時には、その時の搭乗員に本国への帰還を許す規則があったのだそうです。

メンフィス・ベルが24回の帰還を果たし、いよいよ25回目の攻撃に向かうことになった際、戦意高揚のために撮影班が召集されて撮影されたドキュメンタリー映画でした。

別の言い方をすると、圧倒的な戦力を誇ったアメリカ空軍においてさえ、25回の帰還を果たすことは映画になるぐらい稀なことであったということ。
それが、厳しい戦場の現実でした。

ドイツ軍の激しい対空砲火や迎撃戦闘機によって、実際に撃墜されてゆくB-17の姿、帰還機の激しい損傷、そして機上で死傷した搭乗員たちの姿…

戦時中に制作されたドキュメンタリー映画は、戦争の厳しい現実を淡々と伝えます。

最後に、25回目の帰還を果たした搭乗員たちは、アメリカ本国での教官という新しい任務を与えられて帰国の途につくのでした。
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このドキュメンタリー映画を観て、私が認識したことは、アメリカでも現役の大学生たちが兵役に就いていたということです。
それも、文系・理系を問わず。




*

日本における学徒出陣は、敗戦必至という状況における悲劇的な政策決定というイメージで伝えられることが多いように思います。

しかし、先勝国アメリカでも、現役の大学生たち、それも理科系でも等しく兵役に就いていたことを、この映画で私は初めて知りました。

もちろん、戦死した大学生たちも数多くいたことでしょう。
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敗戦国の日本は、自分たちだけがひどい目にあったと思いがちですが、戦勝国の若者たちの中にも学業半ばで無念の死を迎えた人たちがいました。
戦争のむごさを感じます。
なお、1990年に「メンフィス・ベル」という同じタイトルで映画が制作されていまして、こちらはドキュメンタリーではありません。
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妖星ゴラス&上を向いて歩こう

2010-06-05 21:10:48 | 映画、テレビ、漫画
日本の無人小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還すると報道されています。

この探査機の名前を見て、「おっ、これは」と思った特撮映画ファンが必ずいらっしゃったと思います。

1967年(昭和37年)の東宝作品「妖星ゴラス」は、地球の六千倍の質量を持つ流星のゴラスが地球に接近して、あわや地球が重力で飲み込まれて消滅の危機に陥るというSF作品でした。

妖星ゴラスが発見された時、たまたま土星探査の任務で近くの宇宙空間を航行していたのが日本の有人ロケットで、その名もJX-1隼号。
すぐさまゴラスの探査を試みるも、ゴラスの強力な重力に吸い寄せられて、ロケットエンジンを最大出力にしても、隼号は重力圏から逃れることが出来なくなってしまったのです。

ちなみに、艇長役は田崎潤さん。
最後までゴラスの観測し続けた艇員たちは、その観測データを地球に向けて発信し終えた後、万歳三唱をしながら、ロケットもろともゴラスに吸い込まれて、全員殉職してしまう悲劇となってしまいました。

隼号が激突直前に地球に発信した計測データに基づき科学者たちが計算してみたところ、このままの軌道でゴラスが進むと、地球はゴラスに飲み込まれて人類が消滅することが判明し、世界中はパニックに。

そこで、南極に強力なジェットエンジンを多数設置して地球の軌道をずらし、ゴラスを回避する壮大なプロジェクトが始まりました。
そのプロジェクトを指揮する科学者の役が池部良さん。
最後は、見事にゴラスを回避して、地球は救われました。

映画のストーリーは現代にも通用する画期的なものでした。
一方、土星探査機を飛ばす時代が舞台なのに、電話の受話器やテレビがずいぶん旧式なものであったりするのはご愛嬌。
なにせ今から48年前に作られた映画ですから、あらゆる家電がデジタル化されることになるとは、さすがの東宝特撮陣も想像できなくても仕方ありません。

ところで、今夜のBS日テレで放送されていた映画「上を向いて歩こう」も、たまたま同じ1962年の日活作品。

ご存知、坂本九さんのヒット曲が主題歌です。


高橋英樹さんや吉永小百合さんが登場するオープニングが、早稲田の大隈講堂前で撮影されています。
当時の正門付近の風景や早大生たちの服装を見ることができます。
上下とも学生服という学生、黒の学生服に灰色のズボンという学生が半々という感じでした。

また、映画のエンディングでは、築地の魚市場で働く若者の役の高橋英樹さんが早稲田の第二政経学部の合格通知をもらい職場の仲間から祝福される場面、あるいは当時の早稲田の野球部の練習風景や早慶戦の場面が一瞬ですがカラーで紹介されて、なかなか面白かったですよ。

ちなみに昭和37年は、早稲田の野球部が春4位、秋は5位と苦しんだ年でした。


写真は、昭和37年の神宮でのひとこま。
ピンチになってマウンドに駆け寄った石井連蔵監督から指示を受ける、宮本洋二郎投手(米子東)と捕手の鈴木主将(清水東)
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猫目の少女

2010-03-17 18:40:59 | 映画、テレビ、漫画
明治大学と企業が、1人でトスバッティングの練習ができる機械を共同開発したという報道がありました。
記事へのリンク
空中浮遊するボールを打つという仕組み、そして渦巻き状のボール投入口が、何ともユニークですね。

さて、自民党の鳩山邦夫さんが、新党を旗揚げするぞと怪気炎をあげています。

政治資金の調達面での不安がないためか、昔から派閥に束縛されない行動派というか、奔放なイメージの鳩山邦夫さん。
昨年の衆議院選挙での大敗後、新しい未来像を描ききれずに苦しむ自民党に、鳩山さんとしては付き合って入られないというところでしょうか。

鳩山邦夫さんといえば、奥さんが高見エミリーさんという元タレントさん。
高見エミリーさんは、タレントになる前はエミリー・ベアードという名前で、週刊誌「少女フレンド」などの表紙を飾る売れっ子モデルでした。

芸能関係にからっきし疎い私ですが、エミリー・ベアードさんの名前はきちんと憶えています。

なぜならば、私、幼稚園年長組から中学校一年生までクラシック・ピアノの個人教授を週に二回受けていまして、そのピアノを習っていた先生のお家で、レッスンの順番待ちをしている時に「少女フレンド」を読んでいたからです。

素敵な洋館にお住まいであったご年輩のK先生は東京芸大出身で、そこに近所の小中学生約20名が通っていました。
しかし、私以外は全員女の子。今と違って、ピアノを習う男子は極めて少数派でした。

先生が、お孫さんが読み終わった少女フレンドをピアノ室の脇の小部屋に置き、順番待ちしている生徒さんたちが暇つぶしできるようにしていたのです。

忍者やスポーツ根性もののマンガを愛する私ですから、マンガの背景に花びらが散っているような、あるいは大きな瞳がキラキラしているような少女漫画の雰囲気が大の苦手でした。

しかし、ある時、何気なくめくった少女フレンドで梅図かずおさんの「猫目の少女」を一読して、すっかりハマってしまったのです。
「ヘビ少女」とか「ママが怖い」という作品もありました。

そこには普段読んでいる少年向けマンガ週刊誌では見たことの無い薄気味悪さがありまして、「こんな不気味なマンガを好きだなんて、女の子の感性は不思議なものだなあ」と思いつつも、毎週楽しみに読んでいました。

考えて見れば、遊園地でも、お化け屋敷や巨大なジェットコースターなどの入口の前で、尻込みする男性を引き摺るようにして入場していく女性を見かけたりしますから、ホラーもの、スリルのあるものに対する許容力や好奇心は、女性の方が案外強いのかもしれません。

「猫目の少女」で思い出すのは、同じピアノ教室に通っていた生徒の1人で、私より一学年上のアキコちゃんという女の子。

彼女は通産省の高級官僚の娘さんで、私立のいわゆるお嬢様学校に通っていました。
区立小学校に通う私は全く面識がなかったのですが、待ち合い室で読んだ「猫目の少女」をきっかけに仲良くなりました。

いつしか、暗くなったレッスン終了後には、私の自転車で二人乗りして自宅まで送っていくのが恒例となり、さしずめ私は子供版「アッシーくん」という存在に。
それからは、都心のホールでのピアノ発表会の後に、二人の家族で一緒に夕食をしてから帰宅したりもする仲良しとなりました。

でも、私が中学校でのブラバンとバレーボールのグラブ活動が忙しくなってピアノ・レッスンを辞めることになり、彼女との接点はなくなってしまいました。

何年間か経って、アキコちゃんは得意のフランス語を受験科目にして早稲田の第一文学部に現役で合格したと、道で出会った彼女のお母様から聞きました。

私が一浪して早稲田に入学してから、何度か地下鉄の早稲田駅付近で彼女を見かけたりしたのですが、反対側の歩道だったりして、ついに再び会話する機会はなかったのです。

「今頃どうしているのかなあ」と、ふと考えることがあります。
もし彼女と話す機会があったならば、もちろん話題は「猫目の少女」で決まりですね。
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忍びの者

2010-03-01 19:16:27 | 映画、テレビ、漫画
1962年に第一作が公開されるや、空前の忍者ブームを巻き起こした映画が、市川雷蔵さん主演の「忍びの者」シリーズです。

この映画の中で登場する、畳返し・変わり身の術、手裏剣・撒き菱などの小道具、あるいは複雑な造りの忍者屋敷など、子供たちの好奇心を大いに刺激しました。
ただ、色っぽい場面も時折あるためか、いくら頼んでも私の父親は映画館に連れていってくれませんでした。
そこで、近所の商店の友達が店員さんと行く時に、内緒で連れていってもらったりしていました。

そのうちに、少年雑誌に忍者に関する特集記事が載り始め、その後「伊賀の影丸」、「サスケ」などの忍者マンガの名作が連載されて忍者ブームは最高潮に。
当時の玩具店や駄菓子屋には、オモチャの手裏剣が何種類も並んでいたものです。

さて、1960年代までの日本映画は、凝った脚本といい、豪華な俳優陣といい、テレビには真似のできない作品が揃っていました。

日本映画の衰退は、今から考えても本当に残念です。
テレビの普及ばかりでなく、日本と欧米との企業風土の違いも原因だったと思います。
経営資源の投入が制作部門に偏る、極めて日本的な企業経営であった日本映画界。
現代的なマーケティング能力を欠き、時代に合わせたビジネスモデルを作ることができませんでした。
その結果、興業成績の低迷が続き制作予算も大幅に減少。
映画本来の強みを置き忘れ、安っぽい作品ばかりが封切りされるようになった結果、長年の映画ファンからも見放され、完全に命運が尽きました。

時は流れて、映画界が味わった苦しみを、今度はテレビ業界が味わっています。
安っぽいバラエティー番組や旅番組ばかりをテレビが放送しているのは、何とも皮肉な歴史の繰り返しという感じがしてしまいます。

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アルプスの若大将

2010-02-25 19:01:46 | 映画、テレビ、漫画
今日、東京で「春一番」が吹きました。
3月早々に1週間ばかり休暇を取ってロス・キャンプ見学に行く予定でしたが、どうしても仕事の調整ができず、断腸の思いで航空券・ホテル・レンタカーの予約を全てキャンセルしました。
(T_T)

さて、熱戦の続くバンクーバー冬季五輪が後半戦の佳境を迎えようとしています。

私の世代でウィンター・スポーツを身近に感じたのは、加山雄三さん主演の「アルプスの若大将」だという方が多いのではないかと思います。

「アルプスの若大将」は1966年(昭和41年)に封切りされた東宝作品。
京南大学スキー部のエース・田沼雄一(加山雄三)とパンアメリカン航空の社員・岸澄子(星由里子)とのヨーロッパでの出逢いと恋、そして苗場を舞台にした京南大学と西北大学とのスキー対抗戦(すなわちスキー早慶戦)での若大将の活躍を軸にした青春映画です。
加山雄三さんの人気絶頂期に封切りされた作品ということもあり、その年の日本映画で最多入場者数を記録するとともに、数ある若大将シリーズの中でも最高の興行実績となりました。

共演の星由里子さんは、若大将シリーズ開始当初にはポッチャリした少女の感じでしたが、本作品の頃にはすっかり洗練された大人の女性の雰囲気になっていて、「アルプスの若大将」での星さんは本当に素敵です。
そして挿入歌は「走れドンキー」「蒼い星くず」「夕陽は紅く」「ブライト・ホーン」「モンテローザ」と名曲揃い。
ちなみに、私は「ブライト・ホーン」が一番好きな曲です。
↓「ブライトホーン」のYouTube
携帯用リンク
パソコン用リンク

また、大相撲千秋楽の表彰式での「ヒョウ・ショウ・ジョウ」と言う挨拶で有名となったパン・アメリカン航空のデビット・ジョーンズさんの出演も話題となりました。

映画に登場する40年前のスキーヤーたちのファッションは、さすがに時代を感じさせますが、着ているのが時代を代表する美男美女となれば、やはり格好良いものです。

添付した写真は、作品の中で若大将にモーションをかける女性の役の若林映子さんです。
若林さんは、都立青山高校の私の先輩で、「007は二度死ぬ」に、ボンドガールとして浜美枝さんと共に出演された方です。
若林さんは、特撮テレビ「ウルトラQ」の「クモ男爵」にも出演されたりしています。

ところで私は、アメリカやアジアには仕事や遊びで何度も行っていますが、まだヨーロッパには行ったことがありません。
ですから、「アルプスの若大将」に登場するアルプスの美しい山々とローマの街並みが、私にとってのヨーロッパの原風景です。
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喜劇新思想体系

2010-02-22 18:33:45 | 映画、テレビ、漫画
今日は2月22日。

1975年に私が早稲田の法学部を受験した際の受験番号が222番でした。
同時に願書を郵送した政治経済学部が1万5千番台だったので、「どういう具合で、こんなに違う番号になったのかなあ」と不思議に思ったものです。

ともかく、その受験番号222を合格発表のボードで発見したところから現在の早稲田スポーツ漬けの人生が始まった訳ですから、私にとって実に意味のある、ラッキーナンバーであることは間違いありません。

さて私が中学生だった頃、少年マガジンを愛読していました。

当時の少年マガジンには、不朽の名作「巨人の星」と「明日のジョー」が連載されているという黄金時代。
きっと、物凄い販売部数を誇っていたはずです。

そんな大物漫画家が大作を連載する超メジャーな存在であった少年マガジンに、ある時「光る風」という作品が掲載されました。

時代は、泥沼化したベトナム戦争で世界が揺れていた頃。
そんな世相を反映してか、「光る風」は、再軍備に着手した近未来の日本を描くがシリアスな内容のマンガで、その作者が山上たつひこさんでした。

そして私が高校に進んで暫らく経った頃、同じ中学からきたクラスメートでジャズ仲間のSくんが、「おいay、『喜劇新思想体系』って知ってるか。面白いぞ」というのです。
Sくんに関する過去記事

堅いタイトルでもありますし、てっきり「光る風」のような作品かと思って読んだらビックリ!
過激な下ネタと禁止用語の連発、上方漫才のリズム感を持った軽妙なストーリー展開、そこはかとなく漂う青春のむなしさ。
そんな様々な要素が渾然一体となったマンガが「喜劇新思想体系」でした。

主人公・逆向春助が住む安アパートに、
小説家志望の筒彦、
修行中の僧侶・時次郎、
三味線の師匠・亀丸、
「割烹おます」の若尾志麻と妹めぐみが常連として加わり、時にはドタバタ、時にはエログロをテーマにして、過激で殺那的な笑いを追求していました。(写真)

ブログで話題にするのがはばかられるような過激な内容だけに、みんな知らんぷりしながら実はしっかり読んでいるという、アングラ的な存在のまま「喜劇新思想体系」の連載は二年ほどで終了。
その後に連載がスタートして大人気となったのが「こまわりくん」でありました。

今になって考えてみると、全共闘世代に愛された「あしたのジョー」から、しらけ世代の「こまわりくん」へと、時代の潮目が変わった象徴だったんだなあというような気がします。

現在、山上さんは小説家になっているらしいです。



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軍人俳優

2010-02-17 18:13:43 | 映画、テレビ、漫画
健康診断のために、新橋の慈恵大病院に行きました。
慈恵医大には、青山高校のクラスメートだったOくんが現役合格し、卒業後も研究者として今も大学に残っています。

検査の順番待ちをしながら、「Oくんとは3年前のクラス会で会ったっきりだなあ」「帰りに研究室に寄ろうかな」などと考えていたら、廊下の向こうから、私服姿のOくんが歩いてくるではありませんか。
\(^O^)/

「おい、医者が白衣を着ないでブラブラしていて、偉い人に怒られないのか」と私が言うと
「今日は俺も患者なんだよ」と彼は苦笑しながら、採血室へと歩いていきました。

考えてみれは、彼は私と同い年。
お互いに体にガタが来はじめてもおかしくない年齢であることを、すっかり忘れていました。


さて、日本映画の長い歴史の中には、それこそ星の数ほど俳優さんがいらっしゃいますが、「軍人俳優」と呼ばれて、これほどシックリくる方はいないだろうと思います。

それは藤田進さん。
藤田さんは、戦時中に制作された東宝の三部作「ハワイ・マレー沖海戦」「加藤隼戦闘隊」「雷撃隊出動」の全てに主役級で出演。
戦後も「太平洋奇跡の作戦キスカ」「日本のいちばん長い日」「日本海海戦」などの戦争映画に出演するとともに、「モスラ対ゴジラ」「宇宙怪獣ドゴラ」など数多くの怪獣特撮映画にも軍人役で出演しました。

藤田進さんは、九州・久留米の出身。
私の目から見て、あまり器用な俳優さんとは思えません。
しかし、ごつい体つきと九州訛りが相まって、藤田さんが自然体で演技すると、武骨で男っぽく、そして実直さを感じさせる、いかにも腹の座った将校という雰囲気になってしまうのです。
そんな他の人には真似のできない貫禄が持ち味の俳優さんが藤田進さんでした。
もっとも、貫禄がありすぎるので、軍人といっても一兵卒の役は難しかったでしょう。
(*^_^*)

九州訛りといえば、熊本出身の笠智衆さんも、言葉の訛りが醸し出す素朴さや実直さを感じさせる雰囲気が、そのまま俳優さんとしての存在感になっている方でした。

松竹の俳優さんで、小津安二郎監督の作品、あるい寅さんシリーズの御前さま役ですっかり有名になられた笠智衆さんは、撮影所のあった東海道線の大船駅近くに自宅を構えていらっしゃいました。
現在も、大船駅の観音さま側の小山のふもとに、娘さんが営む美容院があります
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水木しげるさん、そして早稲田

2010-02-16 18:27:32 | 映画、テレビ、漫画
冬季五輪が始まりました。
しかし、西武の堤オーナーのような強力な支援者を失って以来、日本のウィンター・スポーツは、景気後退もあって、どうも盛り上がらないなあと私は感じています。

そんな状況において、盛り場にたむろする輩と見紛うような服装と懲りない言動で騒動となったスノボー選手。
彼の不始末は、彼自身、そしてスノボー競技団体が今後のスポンサーを募ろうとした際に、痛烈なマイナス材料となってくるように思います。

このような経済情勢なのですから、既存のスポンサー企業の中にも、支援打ち切りの大義名分を探しているところが必ずあります。

以前、企業からの支援が決まり、嬉し涙を流すフェンシング日本代表選手を憶えている方もおいでだと思います。
スポーツ選手を取り巻く世の中の厳しさを、どうして関係者は選手たちに教えないのでしょうか。


さて先日、何気なくテレビのスイッチを入れたら、ローカル鉄道を紹介する旅番組をやっていました。

番組のロケ地は、山陰地方は鳥取県。
境港、米子、倉吉の街を鉄道で巡る企画でした。

印象的だったのは、「鬼太郎電車」です。
境港ご出身の漫画家・水木しげるさんの作品に登場する妖怪たちが車体に描かれた電車が、とても楽しそうでした。

水木しげるさんの漫画に私が初めて出会ったのが、小学生時代に「少年マガジン」に連載された「悪魔くん」です。
最初に読んだ時は、葉っぱやら建物やらの背景が細かいところまで書き込まれているのに驚き、全体的に暗いトーンの絵が少し不気味な感じがしました。

「悪魔くん」は、週刊誌の連載とほぼ同時にテレビ番組となり、特撮の妖怪ものというユニークな内容で、あっというまに人気の子供番組となりました。

主人公の少年が魔方陣に向かって「エロイム・エッサイム、エロイム・エッサイム、我は求め訴えたり」と呪文を唱えて悪魔メフィストを呼び出すシーンは、あの当時の子供ならば、誰もが一度は真似をしたものです。
ユーチューブに当時の番組のオープニングなどがアップされていたので、ご覧になってみてください。
悪魔くん(携帯用リンク)
悪魔くん(PC用リンク)

さて、鳥取県は、早稲田の野球部に優秀な選手を送り込んでいる土地でもあります。
米子から伝説の名選手である直江、勝部(ともに米子東)。
倉吉からは、部史に残る新人監督であった国府(倉吉北)。
そして、境港からは新三年生の学生コーチである濱くん(境)。

特に、現役の濱コーチには、ポスト斎藤世代を支える若手の心技体を、ガンガン鍛えてもらわなくてはなりません。

甘いマスクで心優しい男の濱くんですが、これから二年間は心を鬼に、いや「鬼太郎」のようになって、強く凛々しい野球部を作ってくれることを期待しています。
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ぎゅわんぶらあ自己中心派

2010-01-25 21:23:44 | 映画、テレビ、漫画
高校二年生でクラブ仲間と始めて以来、大学卒業までの約六年間、どっぷり麻雀に浸かりました。
指からはペンだこが消滅して、代わりに盲牌だこができました。

それこそ夢の中にも麻雀が出てくるぐらい熱中しましたので、麻雀に関する漫画もずいぶん読みました。

多くの麻雀漫画は、プロ雀士の息詰まる対決を描いたシリアスな劇画です。
しかし、片山まさゆきさんの「ぎゅわんぶらあ自己中心派」は、徹底的に麻雀をパロディ化した点で、異色の傑作でした。

まず、登場人物の設定が笑えます。

例えば、
いつも理詰めで確率重視のギャンブラー「全自動の狼」
麻雀に関する格言を熟知し、それらをつぶやきながら手作りする「格言キッド」
お金も実力も運も無いのに麻雀好きで、やればやるほど落ちぶれていく「貧乏おやじ」

迷彩も何もないカンチャン待ちなどのタコ麻雀で周囲を混乱させる「オクトパスふみ」

いかにも自分の麻雀仲間にも良く似たキャラクターが実在していそうな、典型的な人物が次々に漫画の中に登場します。

また、私と同世代である作者の片山さん(確か、現役の明大生)ならではの奇抜なストーリーも楽しめます。

例えば
ウルトラQの怪獣ペギラ、バルタン星人、ガラモンが雀荘に現れて、最後はバルタンが腕のハサミの中に麻雀牌を隠してイカサマする話

革マルと中核派が麻雀をやり、負けた中核派が「我々の戦いは勝利だった」と負け惜しみのアジ演説を始める話

就職活動にちなんだ牌を使った麻雀で、東京海上とか三井物産などの人気企業を三枚揃えると役がついたり、当時の都銀13行だったことにかけて国士無双・都銀13面待ちをあがったりする話

アパート探しにちなんだ牌を使い、田園調布などを揃えてあがると高い点数になり、成増などであがると安あがりになる話

よくもまあ、次から次に、キャラクターやストーリーを考え出したものだと感心してしまいます。
言ってみれば、「ゲバゲバ90分」に近いノリでしょうか。

恐らく人生の間で最も頭脳が柔らかい時期に、朝から晩まで麻雀に明け暮れたことは、冷静に考えれば一生の不覚といえるかも知れません。

でも、携帯電話もパソコンもテレビゲームも無い時代に、気の合う仲間とワイワイガヤガヤと長時間一緒に過ごしたこと。
それはそれで、かけがいのない思い出であることも間違いないのです。

今は麻雀をする機会も滅多にありません。
でも、「ぎゅわんぶらあ自己中心派」のページをめくると、時の経つのも忘れて雀卓に座っていた、しょーもない、でも無茶苦茶に楽しかった、あの頃のこと、友の顔とクセ、そして様々なハプニングを思い出します。
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「坂の上の雲」と「龍馬伝」

2010-01-13 18:17:20 | 映画、テレビ、漫画
NHKのテレビ番組「坂の上の雲」の第一部が大好評のうちに終了し、大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。

私も龍馬伝を観てみました。

技術的なことは良く分からないのですが、撮影の方法(あるいは撮影の機材)が変わったらしく、これまでの大河ドラマと映像の質が全く異なります。

オーディオの音質に例えると、次のような感じでしょうか。

*坂の上の雲や従来の大河ドラマの画質がJBLスタジオモニターのスピーカーで、時には固いと感じることもあるリアルな原音追求型
*今度の龍馬伝の画質は、タンノイのスピーカーによる、甘く豊かな響きの情感追求型

個人的な好みの問題ですが、今のところ私は、従来の原音追求型の画質の方が落ち着いて観ていることができるような気がします。

一方、龍馬伝は、音楽効果などを含めて大仰な印象を受ける場面もあって、私には観ていてちょっと疲れる感じです。

もっとも映画好きの方々は、龍馬伝の画質に慣れていらっしゃるのかも知れませんね。

さて、「父が子に語る近現代史」(小島毅、1260円)を読みました。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に描かれるように、明治になって日本が生まれ変わり、欧州諸国にならって西洋風の国づくりすることで初めて一人前の近代国家になれると考えて、日本人たちは必死に学び、国家建設に取り組みました。

そして、必死に頑張る当時の日本人たちの健気な姿が、現代の多くの日本人からも幅広く共感を得ています。
それが、両番組の高い視聴率に表れています。

ところが、「父が子に語る近現代史」を書いた小島毅さんの視点は、少し違います。

小島さんによれば、日本は元来、中国や朝鮮半島をお手本として、様々な文化を学んで成長してきた国であった。

ところが明治維新以降、西洋諸国を国づくりの目標に置いたが故に、朝鮮半島や中国などの諸国を西洋化が後れた国家だと日本人は考えるようになっていった。

このためにアジア諸国を蔑視する意識が国民にすっかり根づいてしまい、その結果が最終的には太平洋戦争に帰着したのだと。

そして、小島さんが指摘される新しい視点は、今回のNHKの「坂の上の雲」の脚本作りにも影響を与えており、司馬遼太郎の原作から離れて、アジアの近隣諸国に西洋化を押し売りする日本の姿勢に対して森鴎外や正岡子規が否定的な意見をいう場面が加えられたりしていると。

なるほど、国をあげて富国強兵を目指していた頃の日本人には、アジア諸国は日本をお手本にしろという驕った姿勢があったように思います。

そして第二次大戦後、めざましい復興と経済の高度成長に成功した現代の日本人の意識の中にも、実は戦前と同じようなアジア諸国に対する意識が潜んでいたのかも知れないなあと改めて考えたりしています。

必死に西洋化を進めようと努力する日本と、アジア諸国との関わりあい。

このような視点を意識していると、大河ドラマや坂の上の雲も、これまでとは一味違った物語として観ることができそうな気がしてきました。
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