JX-ENEOSの新監督に山岡剛くん(日大高ー早大)が決まりました。
在学中の山岡くんは、武内晋一主将(智辯和歌山ーロッテーヤクルト)の同期で副将。
やはり同期に鳴り物入りで入学してきた大型捕手・小林崇くん(比叡山高校-早大-三菱自動車岡崎)がいたために、一時は内野や外野に転向を余儀なくされるなど、ずいぶん苦労しました。
しかし、最後は正捕手の座を獲得。実に立派でした。
グラウンドでの明るく礼儀正しい振る舞い、そしてレガースなどの用具を人一倍大切に取り扱う彼の姿が思い出されます。
ちなみに、彼のお父上は早大野球部、妹さんは早大応援部チアリーダーでした。
エネオスは伝統のある名門チームですから、常に都市対抗野球出場が求められる厳しさがあります。
監督として ぜひ手腕を発揮してもらいたいと思います。
そして将来、彼が早稲田の監督という可能性もあるなと、私は密かに期待しております。
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12月7日(水)、早稲田でジャズのトークショーが行われます。

司会を務める音楽評論家 萩原健太さんは、早大法学部OB。
母校での仕事ということで、さぞ張り切っていらっしゃることでしょう。
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大相撲は12日目が終わりました。
十両八枚目の安美錦が6勝6敗で ギリギリのところで踏ん張っています。
幕内の賜杯争いとともに、十両も目を離せない状況です。
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さて、東京圏は、半世紀ぶりとなる11月の積雪となりました。
天候の崩れが1日早ければ、秩父宮は「雪の早慶戦」となりかねませんでしたね。
この時期の東京の降雪は54年ぶりとのこと。
54年ぶりということは、1962年(昭和37年)11月以来ということです。

昭和37年11月から38年にかけての大雪は「サンパチ豪雪」と呼ばれています。
当時のニュース映像には、"裏日本"とか"人夫(にんぷ)"など、今では使われなくなった言葉も登場しますので、時の流れを実感します。
サンパチ豪雪の冬は、私が富山県滑川市で過ごした最後の冬でした。
軒先を越えるまで積もった雪が ようやく融けた昭和38年4月、父の転勤のため、我が家は東京都目黒区に転居したのです。
私は小学2年生に進級したばかりでした。
すっぽりと雪に埋まった街なみ、白雪を蹴散らして突進するラッセル車、そして住民総出による除雪作業の様子などを、今も鮮明に憶えています。

また、ゴム長に縄を縛りつけて、滑り止めにしていたことなども……

そんな記憶の数々が鮮明なだけに、雪国から都内に走ってきた貨物列車の屋根の雪を渋谷駅のホームから見かけるたびに、富山県での日々を思い出したものです。
私にとって、雪は「望郷の念」をかき立てるスイッチなんです。
この冬は、中越地方でも大雪になるのかも知れませんね。
白銀の立山連峰を眺めながら、雪の吹き込む駅のホームで、 熱々の「立山そば」を食べたくなってきました。
(^-^)


JX-ENEOS新監督に田沢純一の元女房・山岡氏 - 大学・社会人 : 日刊スポーツ
在学中の山岡くんは、武内晋一主将(智辯和歌山ーロッテーヤクルト)の同期で副将。
やはり同期に鳴り物入りで入学してきた大型捕手・小林崇くん(比叡山高校-早大-三菱自動車岡崎)がいたために、一時は内野や外野に転向を余儀なくされるなど、ずいぶん苦労しました。
しかし、最後は正捕手の座を獲得。実に立派でした。
グラウンドでの明るく礼儀正しい振る舞い、そしてレガースなどの用具を人一倍大切に取り扱う彼の姿が思い出されます。
ちなみに、彼のお父上は早大野球部、妹さんは早大応援部チアリーダーでした。
【社会科学部報 No.47掲載】二代に渡って「女房役」 – 早稲田大学 社会科学部
エネオスは伝統のある名門チームですから、常に都市対抗野球出場が求められる厳しさがあります。
監督として ぜひ手腕を発揮してもらいたいと思います。
そして将来、彼が早稲田の監督という可能性もあるなと、私は密かに期待しております。
JX-ENEOS野球部 山岡 剛先輩講演 「リーダーシップについて」 | ニュース&トピックス | 早稲田大学野球部
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12月7日(水)、早稲田でジャズのトークショーが行われます。

http://shinjuku.keizai.biz/phone/headline.php?id=2409
司会を務める音楽評論家 萩原健太さんは、早大法学部OB。
母校での仕事ということで、さぞ張り切っていらっしゃることでしょう。
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大相撲は12日目が終わりました。
十両八枚目の安美錦が6勝6敗で ギリギリのところで踏ん張っています。
幕内の賜杯争いとともに、十両も目を離せない状況です。
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さて、東京圏は、半世紀ぶりとなる11月の積雪となりました。
東京などで初雪 関東甲信の平野部でも積雪おそれ | NHKニュース
天候の崩れが1日早ければ、秩父宮は「雪の早慶戦」となりかねませんでしたね。
この時期の東京の降雪は54年ぶりとのこと。
54年ぶりということは、1962年(昭和37年)11月以来ということです。

昭和37年11月から38年にかけての大雪は「サンパチ豪雪」と呼ばれています。
"【1963年1月】 三八豪雪 雪国の暮らしぶり" を YouTube で見る
当時のニュース映像には、"裏日本"とか"人夫(にんぷ)"など、今では使われなくなった言葉も登場しますので、時の流れを実感します。
サンパチ豪雪の冬は、私が富山県滑川市で過ごした最後の冬でした。
軒先を越えるまで積もった雪が ようやく融けた昭和38年4月、父の転勤のため、我が家は東京都目黒区に転居したのです。
私は小学2年生に進級したばかりでした。
すっぽりと雪に埋まった街なみ、白雪を蹴散らして突進するラッセル車、そして住民総出による除雪作業の様子などを、今も鮮明に憶えています。

また、ゴム長に縄を縛りつけて、滑り止めにしていたことなども……

そんな記憶の数々が鮮明なだけに、雪国から都内に走ってきた貨物列車の屋根の雪を渋谷駅のホームから見かけるたびに、富山県での日々を思い出したものです。
私にとって、雪は「望郷の念」をかき立てるスイッチなんです。
この冬は、中越地方でも大雪になるのかも知れませんね。
白銀の立山連峰を眺めながら、雪の吹き込む駅のホームで、 熱々の「立山そば」を食べたくなってきました。
(^-^)

