1975年(昭和50年)の春、私は早稲田大学法学部に入学しました。
テレビでも活躍する北村晴男弁護士(長野高校出身)も法学部1975年入学組。
(お互い授業に出席していなかったためか、面識はありません)
高校球児だった北村さんが、つい先日届いた早稲田学報に一文を寄せていました。
それによると、早大入学直後に彼は安部球場を訪れたのだそうです。どうやら野球部入部を考えていた様子。
しかし、早稲田の内野手の洗練されたグラブさばき、素早い送球動作と鉄砲肩を目撃し、「これは自分が勝負できるレベルではない」と感じて、野球続行を断念したそうです。
同じような話を、オフ会の長老Tさん(都立雪谷高校出身)からもお聞きしたことがありますから、野球無名校出身者が早稲田の野球部へ入部するということは、相当な決意と覚悟が必要なのでしょう。
さて、北村弁護士が度肝を抜かれたという1975年当時の野球部は、どのような陣容だったのか。
5松本(三年、報徳学園)
4西村(四年、平安)、岡村(二年、佐賀西)
7吉澤(三年、日大三)
3佐藤(二年、天理)
6八木(三年、興国)
8川口(四年、主将、成東、現姓:加藤)
9三浦(三年、東邦)、鈴木茂樹(三年、早実)
2山倉(二年、東邦)
1谷井(四年、八尾)、阿部(四年、大舘鳳鳴)、香川(四年、坂出工業)、道方(二年、箕面自由学園)
西村、八木、松本、岡村といった面々の守備に、北村弁護士はびっくりしたということになりますね。
写真は左から西村、山倉、谷井
週刊ベースボール増刊・1975年東京六大学秋季リーグ戦決算号からお借りしました。
この年は、明治の春秋連覇、東大の健闘、早慶戦で延長18回などでリーグ戦は大いに盛り上がりました。
その様子は、別の機会に詳しくご紹介します。
テレビでも活躍する北村晴男弁護士(長野高校出身)も法学部1975年入学組。
(お互い授業に出席していなかったためか、面識はありません)
高校球児だった北村さんが、つい先日届いた早稲田学報に一文を寄せていました。
それによると、早大入学直後に彼は安部球場を訪れたのだそうです。どうやら野球部入部を考えていた様子。
しかし、早稲田の内野手の洗練されたグラブさばき、素早い送球動作と鉄砲肩を目撃し、「これは自分が勝負できるレベルではない」と感じて、野球続行を断念したそうです。
同じような話を、オフ会の長老Tさん(都立雪谷高校出身)からもお聞きしたことがありますから、野球無名校出身者が早稲田の野球部へ入部するということは、相当な決意と覚悟が必要なのでしょう。
さて、北村弁護士が度肝を抜かれたという1975年当時の野球部は、どのような陣容だったのか。
5松本(三年、報徳学園)
4西村(四年、平安)、岡村(二年、佐賀西)
7吉澤(三年、日大三)
3佐藤(二年、天理)
6八木(三年、興国)
8川口(四年、主将、成東、現姓:加藤)
9三浦(三年、東邦)、鈴木茂樹(三年、早実)
2山倉(二年、東邦)
1谷井(四年、八尾)、阿部(四年、大舘鳳鳴)、香川(四年、坂出工業)、道方(二年、箕面自由学園)
西村、八木、松本、岡村といった面々の守備に、北村弁護士はびっくりしたということになりますね。
写真は左から西村、山倉、谷井
週刊ベースボール増刊・1975年東京六大学秋季リーグ戦決算号からお借りしました。
この年は、明治の春秋連覇、東大の健闘、早慶戦で延長18回などでリーグ戦は大いに盛り上がりました。
その様子は、別の機会に詳しくご紹介します。
当時は私も紅顔(厚顔?)の美少年でしたので、変わり果てた現在の姿からは思い当たらないと思いますが
(;^_^A
この年の明治は黄金軍団の法政を抑え連覇しています
丸山、名取の投手陣安岡、川口、羽田、関、小林の野手陣
島岡御大の指揮の元力を発揮しましたね
怪物・江川にも土をつけました。
したがって、実際に応援していた現場感覚でいうと、Bクラスという印象は全くありませんでしたね。
三浦外野手は、今でいえば小島宏輝くんのような存在でしょうか。
愛知県の伝統校出身、強肩、そして『もう少し打てればなあ』というところなど、共通点が多いように思います。
卒業後は日本鋼管に進まれました。
西村内野手は、名門・平安高校の隻腕・西村監督のご子息。
西村選手は三塁を守ることもありましたが、彼が二塁を守った時の枯れた球捌きが、とても大人びていると私には感じられましたね。
卒業後は日本生命に進まれました。
このメンバーではカットの名人、西村選手(平安高)が印象に残っています
あまりのしつこいカットに球審から「次からはバントとみなす」と言われたとか