数量の問題をやってみると、その子どもが日ごろ置かれている「数量的環境」とも言うべきものが手にとるようにわかってしまいます。
皿や箸などの数を数える
アメやお菓子などを「○個ずつ」というように分ける
アンパンなど、かたまりになったものを半分や三等分などにする
ケーキやピザなどのような○・△・□の形を「○等分」のように分ける
自分は誰かよりいくつ多い・少ない・いくつ違うなどと、数えて言う
このような経験を家庭でしょっちゅうしている子どもは、ペーパーに当たっても正解するのがまるで当然であるかのようにスラスラと解いてしまいます。
「数量的感覚」が自然に身についているのでしょう。
ところが、そういう経験を普段していない子は、ビックリするくらいできません。
本当に、皆目見当がつかない、というカンジになってしまいます。
先日も粘土を使った造形の授業のとき…
子どもの両手で持てるくらいの粘土のかたまりを各自に渡してこう言いました。
「この粘土を、まず、4つの同じ大きさに分けてください」
しばらく黙って見ていると…
粘土のかたまりから4回分手でちぎってみたり…
辛うじて分けたものの、4個のかたまりの大きさがかなり不揃いだったり…
粘土のかたまりをまず「半分」にして、その半分にしたそれぞれをまた「半分」にする、ということができないのです。
実は、出したかった課題はその先…
「4つに分けた粘土で、4つのちがうかたちをそれぞれ作りましょう」
というものだったのですが、それ以前の問題でした。
別に、わざわざ粘土を使わなくてもいいんです。
白玉団子でもパンでもおむすびでも、何でも良いんです。
親がちょっと意識して「数量的環境」を作ってあげているかどうか、なのです。
ピザやケーキを切るときなども良い機会です。
できれば子どもに考えさせてやらせてあげて欲しいと思います。
できなくても、せめて切っているところを見せてあげて欲しいものです。
こうやって日常の生活をチョッと工夫することで、自然に「数量的感覚」は身に付くものだと思います。
皿や箸などの数を数える
アメやお菓子などを「○個ずつ」というように分ける
アンパンなど、かたまりになったものを半分や三等分などにする
ケーキやピザなどのような○・△・□の形を「○等分」のように分ける
自分は誰かよりいくつ多い・少ない・いくつ違うなどと、数えて言う
このような経験を家庭でしょっちゅうしている子どもは、ペーパーに当たっても正解するのがまるで当然であるかのようにスラスラと解いてしまいます。
「数量的感覚」が自然に身についているのでしょう。
ところが、そういう経験を普段していない子は、ビックリするくらいできません。
本当に、皆目見当がつかない、というカンジになってしまいます。
先日も粘土を使った造形の授業のとき…
子どもの両手で持てるくらいの粘土のかたまりを各自に渡してこう言いました。
「この粘土を、まず、4つの同じ大きさに分けてください」
しばらく黙って見ていると…
粘土のかたまりから4回分手でちぎってみたり…
辛うじて分けたものの、4個のかたまりの大きさがかなり不揃いだったり…
粘土のかたまりをまず「半分」にして、その半分にしたそれぞれをまた「半分」にする、ということができないのです。
実は、出したかった課題はその先…
「4つに分けた粘土で、4つのちがうかたちをそれぞれ作りましょう」
というものだったのですが、それ以前の問題でした。
別に、わざわざ粘土を使わなくてもいいんです。
白玉団子でもパンでもおむすびでも、何でも良いんです。
親がちょっと意識して「数量的環境」を作ってあげているかどうか、なのです。
ピザやケーキを切るときなども良い機会です。
できれば子どもに考えさせてやらせてあげて欲しいと思います。
できなくても、せめて切っているところを見せてあげて欲しいものです。
こうやって日常の生活をチョッと工夫することで、自然に「数量的感覚」は身に付くものだと思います。