昨日は賛美歌の関西弁バージョンが、あまりに面白くて呆然としてしまうくらいだったのだが、その続きである。
今日何度も関西弁バージョンで聴いているうちに、これは!!とその効果に驚いている。(何度も聴くかよ!?)
意外なほど、素直に心に響くのだ。
たとえば、「おそれはあらじ」という歌詞が「こわいことあらへん」と変換されている。なるほど、そうや、と思う。橋本治的表現を用いれば「身に染む」のだ。言葉が血や肉と化すのだ。
「おそれはあらじ」では、なんだか、まだやせ我慢みたいな、でも心底ではまだ恐浮ェこびりついている。
しかし「こわいことあらへん」は、もう鉄板である。向かい風の中を大笑いしながら肩で風切って歩いてる、みたいな感じだ。まさに、こわいもんなし、なのである。
しかも「わてらのイェスはん」とくれば、これはもう、近所のおっさん以上に身近な存在である。わが心に住む永遠のヒーローである。これが3回リフレインされるのだ。こんな心強いことがまたとあろうか。
そして、そんなお方が「わてらを愛してくれてはる」んだから、勇気凛々、元気モリモリである。孤独、という言葉は、もう金輪際やってこない。
宗教というものをハート・トウ・ハートにするための最短距離は、日常使っている言葉にあったとは。笑い事ではなかったのである。
関西弁に末オた時点で、関西では一気にキリスト教が広まったのではないだろうか。などと、密かに空想したりしている。
今日何度も関西弁バージョンで聴いているうちに、これは!!とその効果に驚いている。(何度も聴くかよ!?)
意外なほど、素直に心に響くのだ。
たとえば、「おそれはあらじ」という歌詞が「こわいことあらへん」と変換されている。なるほど、そうや、と思う。橋本治的表現を用いれば「身に染む」のだ。言葉が血や肉と化すのだ。
「おそれはあらじ」では、なんだか、まだやせ我慢みたいな、でも心底ではまだ恐浮ェこびりついている。
しかし「こわいことあらへん」は、もう鉄板である。向かい風の中を大笑いしながら肩で風切って歩いてる、みたいな感じだ。まさに、こわいもんなし、なのである。
しかも「わてらのイェスはん」とくれば、これはもう、近所のおっさん以上に身近な存在である。わが心に住む永遠のヒーローである。これが3回リフレインされるのだ。こんな心強いことがまたとあろうか。
そして、そんなお方が「わてらを愛してくれてはる」んだから、勇気凛々、元気モリモリである。孤独、という言葉は、もう金輪際やってこない。
宗教というものをハート・トウ・ハートにするための最短距離は、日常使っている言葉にあったとは。笑い事ではなかったのである。
関西弁に末オた時点で、関西では一気にキリスト教が広まったのではないだろうか。などと、密かに空想したりしている。