紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

草津本陣へ

2009-03-26 23:43:00 | おでかけ
今回草津を観光することになったのは、ときどきノリのいい、元気で博識ななコメントをくださり、お忙しいにも関わらずブログ記事を読まれて、わざわざ関東から大山崎山荘美術館まで足をはこんでくださった☆紗さんが、東海道踏破の旅で滋賀県を通過されるので、会いましょう、とお誘いくださったからだ。

 待ち合わせ場所は、草津駅から近く、まさに東海道沿いにあり、江戸時代には東海道の要の宿でもあった草津本陣がいいのでは?というH氏の意見に従った。ジャストな選択であるので、即座に決まった。

 ☆紗さんと会った時に、ちょうどぽつぽつ小雨が降ってきたので、お天気を心配したのだけれど、幸いそのときがピークで、すぐにあがった。

 本陣はほとんど装飾がない。殺風景なくらいである。欄間もほとんどなく、あってもせいぜい菱形の格子の意匠である。わずかに板戸に着色された瀑布や高砂の絵があるくらいか。もっとも☆紗さんによれば、今まで見て来た本陣に比べたら、かなり立派なものなのだそう。

 しかし考えてみればお武家様はほぼ禅宗だ。仏間には木魚と寒山拾得の襖絵があったから、まさしくだ。それなら当然、装飾とは無縁の建築物である。雨露をしのぎ、身体を休め、食事ができる場所として機能すればいいのである。だから、台所用具については、見るべき物が多かったのだろう。

 もっとも質素ながらもお茶室はある。さすがはお武家さまのお宿である。

 それから漆塗りのトイレもあった。男性用大小ちゃんと二つ用意されている。しかも畳敷き! 豪勢だ。

 お風呂は大振りの木の桶である。☆紗さんによれば、大名行列を連ねるお殿様は、生活用品一式を持ってのご旅行で、お風呂なんかも「他人の使った風呂桶に入るのなんて言語道断」というお方もおられ、風呂桶持参で旅をしたお大名もおられるとか。

 それにしても地元民の私が、遠路はるばるこられた☆紗さんに、本陣の説明をいろいろとしていただいていたのだから、いまから考えると笑っちゃう。逆だろ!?
  でも、☆紗さんは、実際にご自分の足で東海道を歩かれ、街道沿いの本陣もいくつもご覧になっているし、知識も体験も場数も踏まれているのだ。 見学場所は貸し切り状態で私たちのみ。本陣スタッフで説明する方はいなかったけれど、☆紗さんの説明は詳細で面白い。いやいや、贅沢な見学である。たいへん勉強になった。

 そのあと炊事場(おくどさん)をみて、ああそういえば昔こういうの、実家にあったなあ・・・と懐かしんだ。もっともお寺の行事で大人数(といっても20~30人程度?)の食事の支度をするときのみ使用しただけなので、ほとんど利用しなかったのだけれど。

 井戸が屋内の三和土(たたき)にあり(超べんり~!)、野外にもかまどが一つ設置されていた。
 昔、焼き魚(さんまのシーズンのみ)は野外で七輪で母親が焼いていた記憶がある。匂いにつられて猫がにゃあにゃあ鳴いてやってきていたなあ。野外のあれは、だから焼き魚用なのかも、と空想する。
 当然のことながら、馬小屋、というか馬用宿泊スペースもあった。3頭は入れる。しかし足りたのだろうか。と、終わってしまった時代のあれこれを心配する。

 見学を終えて外に出れば、曇天ながらも雨は上がっている。ラッキー! 日頃の行いがものをいったのだ(笑) いえ、私ではなく☆紗さんのね。
もう一カ所を一緒に見学することにしていたのだ。  

タイムスリップ!

2009-03-25 16:28:00 | おでかけ
 今日は午後から草津におでかけ。最寄りの駅からJRの普通で三つ目の駅だ。草津といっても温泉場ではなく、江戸時代の宿場の本陣である。写真は暗渠の蓋のコンクリートだが、そこにこんなものが(写真をクリックすると拡大できます)☟


こんなに近場の観光地なのに、行くのは初めて。本陣のごく手前の本屋さんには、若い頃よく通っていたのに。その本屋さんは、今はもうない。

 本陣は草津駅から歩いて5分とあったが、もうちょっとかかったかも。駅から二つ目の筋を右手に折れてまっすぐ歩く。天井川を越えると(もちろん下をくぐるのである)、とたんに「ちょっとした場所」に出る。中山道と東海道の分岐点なのである(写真のバックの高架が天井川。クリックすると拡大できます)。

 実は帰りに発見したのだが、この付近のマンホールが大変なことになっていたのだ。いまでこそ車が走るには狭すぎる道だが、世が世なら、大変な交通の要所なのである。そう、思わず車も自転車も通らないときを待って、道路の中央で写真を撮るくらいに。☟ 


 思いっきり地元民なのに、もう気分はトラベラーである。天井川の短いトンネルを抜けると、そこは江戸時代の一大メインストリートだったのだ。

 しかし、実は本陣の先に私が発見したのは、昭和中期の匂いがするオモチャ屋さんだった。フラフープもシンプルな模型のグライダーもツイスターも人生ゲームもモールや紙風船や縄跳び縄も、独楽や風船やシャボン玉液だってところ狭しと並んでいた。アラフィフには、落涙ものかも(笑)
 しかもその真向かいにも、まるで鏡に映したかのように、まったく同様のオモチャ屋さんが! なぜ!? 



 そして、この話は明日へと続く。いや、オモチャ屋さんの件はナゾのままではあるのだが。

非国民ひとりぼっち

2009-03-24 23:56:00 | テレビ
 新聞はスメ[ツ欄を飛ばして読むくらい、まるでスメ[ツに関心が無い。

 だから世間の人々はこんなにWBCに熱狂し、仕事もうっちゃってる人だっているくらいだというのに、私は馬耳東風、豚に真珠、猫に小判状態。つまり、ほとんど非国民だ。勝ち負けなんてどーでもいいじゃん、というスタンスなのだ。

 これってなんなのか? 子どもの頃、スャRンマンガやドラマが流行したときに、スメ[ツにネガティブな意識しか無かった私ですら、当時人並みに熱中して視聴したのだけれど、無意識に反発していただろうか? 一度反発して「こう」と思い込むと、妙に頑固でしぶとかったりするので、それが今に至っているのだろうか?

 それとも子ども時代に、その部分だけ一生分燃え尽きてしまったのだろうか?  

 Kちゃんにいわせると、「それだけ興味がないのは、ある意味すごいなー」なのであるが、彼女は本日の試合については「なんかドラマみたいにあまりに出来すぎていて、かえって鼻白む。イチローはおいしいとこ取りやし(イチロー嫌い)」と、本日の日本人としては珍しく、かなりドライで懐疑的なコメントを語っていた。

 逆に我家の男性たちは、そろって(野球に限らず)スメ[ツ観戦を熱愛する一般的日本人なのである。

 日本人が一丸となって感動し、日本人の誇りを謳歌した本日。そんな感動も謳歌も、全く無縁に過ごしてしまった私。かといって、それが居心地が悪いとか、スメ[ツ・ナショナリズム批判とか、そういうこともない。ただ、WBCでメディアが塗りつぶされると、ほかにある埋め草記事みたいな、ちょっと面白いできごとやなにかがつぶれちゃったりするのが、やや残念なくらいか。

 しかし、それも今日で終了である。今の気分は、ほとんど太宰治。生まれてきてすみません。そしてWBCについて、こんなに無気力な記事を書いてすみません、やれやれ(と、自分にためいき)。

聖典がネタ帳!?

2009-03-23 22:30:00 | 読書
 いやまだ「読了」はしていないけど、『聖☆おにいさん』3巻は、1、2巻同様面白い。聖書や仏典のエピソードを元ネタに、様々な展開で笑いに変換!

 言葉の意味の二重構造から、意味の取り替えによる誤解の連続に笑ったり、本人達も気づかないうちに、「つい起こしてしまった奇跡」によるいつもの笑いあり、贅沢な笑いのツボが満載なのだ。

 新たに登場した人々の「いかにも」なキャラが可笑しかったりもする。イエスの弟子、ペドロとイエスのケータイ師弟漫才もなかなかだったけど、私は破壊天使ウリエルの破壊度に降参しましたね♪ その他にも数人、あらたなキャラがいらっしゃいます♪お楽しみに! 

 一方、仏陀の思い出話のなかで、仏陀の悟りを遮る降魔(マーラ)が、色仕鰍ッや恐武Sで仏陀の心を揺さぶろうとするも失敗した、というエピソードをさらに発展させ、「お笑い」で揺さぶりをかけるという場面が、えらくお気に入り。それにはさすがの仏陀もつい笑ってしまい、マーラを喜ばせてしまうばかりか、その話を聞いたイエスが「個人的にはとても仲良くなれそうだけどなぁ」と独白してるのが、もう!

 いつものメンバーも登場して、登場段階から笑わせてくれはりますわ~!
あの極道の方とか、下宿の大家さんとか、仏陀の天敵・男子小学生とか。

 しかし、ほんまに中村光さん、「おわらい」というものを、ようわかってはりますわ。聖書と仏典も、よ~う読み込んではるし。感服! 

おにいさんをゲット!

2009-03-22 22:22:00 | 読書
 職場で一部回覧した(笑)『聖☆おにいさん』は、たいへん反応が良く、「結局、買いました!!」とツボにはまった方もいらっしゃり、その彼女に3巻の発売日をかなり前から教えてもらっていた。

 だからさっきお兄ちゃんを駅まで送った帰りに本屋さんに立ち寄り、『聖☆おにいさん』3巻を入手しました~♪♪♪

 まず、その薄さに「ええっ!!?」と愕然とするけれど、いやもう、いきなりたたみかけるように笑わせてくれます~♪♪♪ 厚みじゃないのよ、漫画は~♪と、ツィッギーのような(古い比喩でごめん!)薄さも寛大に許せる。まだ5ページしか読んでいないにもかかわらず、である。

 この続きは読了後、また。