わたしが幼かったころ、世界は科学技術というものが熱かった。
Z80, 8086, MC68000が普及しはじめたころで、ちょうどコンピュータというものが世間に知られるころと幼年期が重なった。
そしてボイジャー1号, 2号による惑星探査とも重なり、ボイジャーが捉えた天王星の写真をつかったTVの特番なんかを食い入るように見ていた記憶がある。
わたしは科学技術により世界はもっともっとどこまでも良くなると思っていたし、大きくなったら科学技術に関係ある仕事につきたいと思っていた。
それからもう何年かあとの時代。
世間の未来予想では、米ソが核兵器の打ち込み合戦をおこして世界は崩壊すると信じる人が最も多かった時代。
このころから未来はだんだん明るくなくなってきた。
鉄腕アトムのようなハッピーな未来はリアルとは受け止められなくなり、そして北斗の拳のような崩壊した未来がリアルと受け止められるようになった。
アニメやハリウッド映画では、コンピュータ内の人工知能が暴走して人類と対立するというSFが吐いて捨てるほどあふれかえっていた。
そしてSF的に幸せな未来というものは存在を許されなくなった。
科学技術に対する信仰は地に落ちた。
NHKをのぞく全ての放送局は科学技術を題材にした番組を全く作らなくなった。
一般人は科学技術に興味を失っていき、後に理系離れという長期的な社会問題をひきおこすことになる。
さて現代。
アニメでの科学技術や技術者のあつかいはどうか。
たいがいの場合、科学者はキ○ガイ(マッドサイエンティスト)として書かれる。
定番のセリフはこうだ。
「ワッハッハ、これで世界はわたしのものだ!」
「きさまの体は素晴らしい実験素体だ、これでわたしの実験がはかどるぞ!」
そしてマッドサイエンティストは良い子の主人公に倒される。
こんな作品を見て、いったいだれが理系に行きたいと思うかね。
技術立国日本は自らの布教活動によって技術立国から落ちぶれたいのかね。
わたしはそんなに妄信的にテクノロジーが悪だと解釈するのに違和感をおぼえる。
主人公たちが自分たちの剣技をみがいたり、戦いながら強くなっていったり、ときには気合いで吠えたら強くなるように、テクノロジーの進化により敵と戦う物語があってしかるべきだ。
洋モノであるハヤカワのSF文庫ではそういう小説は案外多い。
しかし、そういったものはアクションで魅せるのではなく設定で魅せる話になりがちなので、ハリウッドには結びつかない。(むしろ「ハリウッド映画化」というオビがついたら「なんだその程度か」といい買う気をなくすハードSFファンは多い。)
したがって世間的には一般的とはならない。
日本人が描くものではそういったものは壊滅的に少ない。
わたしが知るなかで最もそれに近いものは、”空想科学エジソン” である。
主人公はスーパーヒーローではない。特殊能力者があるわけではない。ガッツマンでもない。武装しているわけでもない。
しかし主人公はピンチになったら、その溢れかえる想像力の源泉より奇抜なマシンを発明し、自ら工作して乗り越える。
主人公は技術屋だ。そして技術を信奉する主人公はかっこいい。
他には “湾岸ミッドナイト” かな。
多くの車を題材にした作品のようにカーチェイスをメインとする作品で、CGを駆使したアニメ化もされている。
しかし、真の見どころはカーチェイスではない。
かつて時代を築いた旧車たち、メカニックによる改造、つぎつぎに搭載されていくテクノロジー、これこそが真の見どころなのだ。
はっきり言って主人公たちドライバーはいなくてもいい。
しかしメカニックのおっさんたちがいなかったら話がなりたたない。
われわれ読者はメカニックのおっさんたちによる自らの技量を賭けた影のバトルをみて熱くなるのだ。
(まあ「現実とてらしあわせたら○○なわけがない」というツッコミもよくあり、それで好きになれない人もいるのだが、その辺には目をつぶって読もう(笑))
わたしは言いたい。
いつもいつもコピペしたような技術屋のワルモノを登場させるのはいいかげん止めてくれと。
技術を題材にしたものでも本当におもしろい作品は描けるのだ。
わたしも技術屋のはしくれでもあるので、これはわたしの要望である。
Z80, 8086, MC68000が普及しはじめたころで、ちょうどコンピュータというものが世間に知られるころと幼年期が重なった。
そしてボイジャー1号, 2号による惑星探査とも重なり、ボイジャーが捉えた天王星の写真をつかったTVの特番なんかを食い入るように見ていた記憶がある。
わたしは科学技術により世界はもっともっとどこまでも良くなると思っていたし、大きくなったら科学技術に関係ある仕事につきたいと思っていた。
それからもう何年かあとの時代。
世間の未来予想では、米ソが核兵器の打ち込み合戦をおこして世界は崩壊すると信じる人が最も多かった時代。
このころから未来はだんだん明るくなくなってきた。
鉄腕アトムのようなハッピーな未来はリアルとは受け止められなくなり、そして北斗の拳のような崩壊した未来がリアルと受け止められるようになった。
アニメやハリウッド映画では、コンピュータ内の人工知能が暴走して人類と対立するというSFが吐いて捨てるほどあふれかえっていた。
そしてSF的に幸せな未来というものは存在を許されなくなった。
科学技術に対する信仰は地に落ちた。
NHKをのぞく全ての放送局は科学技術を題材にした番組を全く作らなくなった。
一般人は科学技術に興味を失っていき、後に理系離れという長期的な社会問題をひきおこすことになる。
さて現代。
アニメでの科学技術や技術者のあつかいはどうか。
たいがいの場合、科学者はキ○ガイ(マッドサイエンティスト)として書かれる。
定番のセリフはこうだ。
「ワッハッハ、これで世界はわたしのものだ!」
「きさまの体は素晴らしい実験素体だ、これでわたしの実験がはかどるぞ!」
そしてマッドサイエンティストは良い子の主人公に倒される。
こんな作品を見て、いったいだれが理系に行きたいと思うかね。
技術立国日本は自らの布教活動によって技術立国から落ちぶれたいのかね。
わたしはそんなに妄信的にテクノロジーが悪だと解釈するのに違和感をおぼえる。
主人公たちが自分たちの剣技をみがいたり、戦いながら強くなっていったり、ときには気合いで吠えたら強くなるように、テクノロジーの進化により敵と戦う物語があってしかるべきだ。
洋モノであるハヤカワのSF文庫ではそういう小説は案外多い。
しかし、そういったものはアクションで魅せるのではなく設定で魅せる話になりがちなので、ハリウッドには結びつかない。(むしろ「ハリウッド映画化」というオビがついたら「なんだその程度か」といい買う気をなくすハードSFファンは多い。)
したがって世間的には一般的とはならない。
日本人が描くものではそういったものは壊滅的に少ない。
わたしが知るなかで最もそれに近いものは、”空想科学エジソン” である。
主人公はスーパーヒーローではない。特殊能力者があるわけではない。ガッツマンでもない。武装しているわけでもない。
しかし主人公はピンチになったら、その溢れかえる想像力の源泉より奇抜なマシンを発明し、自ら工作して乗り越える。
主人公は技術屋だ。そして技術を信奉する主人公はかっこいい。
他には “湾岸ミッドナイト” かな。
多くの車を題材にした作品のようにカーチェイスをメインとする作品で、CGを駆使したアニメ化もされている。
しかし、真の見どころはカーチェイスではない。
かつて時代を築いた旧車たち、メカニックによる改造、つぎつぎに搭載されていくテクノロジー、これこそが真の見どころなのだ。
はっきり言って主人公たちドライバーはいなくてもいい。
しかしメカニックのおっさんたちがいなかったら話がなりたたない。
われわれ読者はメカニックのおっさんたちによる自らの技量を賭けた影のバトルをみて熱くなるのだ。
(まあ「現実とてらしあわせたら○○なわけがない」というツッコミもよくあり、それで好きになれない人もいるのだが、その辺には目をつぶって読もう(笑))
わたしは言いたい。
いつもいつもコピペしたような技術屋のワルモノを登場させるのはいいかげん止めてくれと。
技術を題材にしたものでも本当におもしろい作品は描けるのだ。
わたしも技術屋のはしくれでもあるので、これはわたしの要望である。