CLANNADというギャルゲーがある。
今回はそのギャルゲーのアニメ化作品、とくに地上波TV未放送の番外編「もうひとつの世界 智代編」についてふれたい。(※1)
CLANNADは数多あるギャルゲーや萌えアニメと同じ女の子とのドタバタ劇であり、そして女の子の言動を見て愛でるものである。
そしてそういった類のものの多くは主人公というキャラクタは、恋愛モノというストーリー展開の都合の上で必要なだけで、とくにキャラクタがヒロインなみに魂がこもっているとは言いがたいような、極端にいえば空気のような存在である場合もある。
CLANNADの主人公もどちらかというとそれに近い。
それでいいのか?
わたしは別にかまわない。
キャラを見て愛でるという目的に準拠した仕様なわけだ。
むしろ積極的に肯定しても良いかもしれない。
しかし!
稀にそうではない萌えアニメもある。
CLANNAD番外編「もうひとつの世界 智代編」がそうだ。
これは先の構図に当てはまらない数少ない作品の1つである。
一般的な萌えアニメでは、ヒロインが主であり主人公はオマケである。
これはCLANNAD本編でもそうだ。
ところが智代編では、めずらしくも主人公が主でありヒロインがオマケのような描写になっているのだ。
つまり、ヒロインを見て愛でる、この一般的手法を用いていない。
ヒロインを見て愛でる主人公を見るものだと言ったほうがいい。
全般的にCLANNADのヒロインは歳相応よりはるかに幼い。
ところが智代編のヒロインだけはそうではない。
チンタラしていた主人公の遥か上をゆく完成された人格者である。
たいへんな人格者のヒロインに愛されながら、その不釣合いに心を痛める主人公。
主人公がいなくても生きていけるヒロインへの救済を描くのではなく、不良を自認するダメダメな主人公のカタルシスや成長の描写。
(これくらいは不良というよりタダのグータラなだけなんだが、まあそれはおいといて…)
はじめてこれを見たときはフシギな感じを受けた。
CLANNAD本編(とくにアニメ版の第1期)は全般的に主人公視点でがんばるヒロインを見て「萌え~♪」とするものだ。
だが智代編だけはそうではなく、ヒロインの寵愛をうける主人公に同調し、葛藤する主人公を見て何かを感じとるのだ。
第2期にも多少用いられているこのあたりの描写テクニック、今までの萌えアニメにない視点の逆転をはかった、なかなかに興味深い手法ではないか!
ついでに言うと、わたしはこの作品に妙な既視感のようなものも感じた。
当blog記事の2009.03.02や2009.04.01で記したように、わたしの出身中学は極めつけにアレなところだった。
そんなところにいたものだから、当時のわたしは凶暴だったし酷く荒れていた。
中学校卒業後、まっとうな高校に入学した。
そこはいわゆる坊ちゃん学校の男子校だった(いまは共学らしいけど)。
そこでは生徒はわたしも含めて人間らしい扱いを受けた。
大人として尊重に値する教師(←ふつうはあたりまえのことなんだが…)に恵まれた。
そしてわたしはまっとうな人間に戻った。
大学にも進学することができた。
そんなわたしだからこそ、”不良を自認するダメダメな主人公のカタルシスや成長の描写” を見て何か思いだしたような気になるのだ。
わたしは共学の学校生活というとどうしても中学校を思い出してしまうので、智代編の主人公の高校生活をどうしても自分の中学校生活とダブらせて見てしまう。
そして高校卒業後の主人公の成長もまた中学卒業後の自分の歩みをダブらせてしまうのだった。
萌えアニメにもかかわらず、わたしはヒロインをあまり見ていなかったような気がしてならない。
ヒロインの智代もそれはそれで大好きだけどね。
【※1 もうひとつの世界 智代編】
CLANNAD「智代編」予告の動画
http://www.tbs.co.jp/clannad/clannad1/06special/images/tomoyo.asx
CLANNAD/DVD/8巻(通常版)
http://ishop.tbs.co.jp/ec/tbs/product/detail.jsp?pid=1957503&cid=cat12392
> <収録内容>
> 3話収録(22~24話)
うち23, 24話は地上波TV未放送であり、智代編はその24話に相当。
今回はそのギャルゲーのアニメ化作品、とくに地上波TV未放送の番外編「もうひとつの世界 智代編」についてふれたい。(※1)
CLANNADは数多あるギャルゲーや萌えアニメと同じ女の子とのドタバタ劇であり、そして女の子の言動を見て愛でるものである。
そしてそういった類のものの多くは主人公というキャラクタは、恋愛モノというストーリー展開の都合の上で必要なだけで、とくにキャラクタがヒロインなみに魂がこもっているとは言いがたいような、極端にいえば空気のような存在である場合もある。
CLANNADの主人公もどちらかというとそれに近い。
それでいいのか?
わたしは別にかまわない。
キャラを見て愛でるという目的に準拠した仕様なわけだ。
むしろ積極的に肯定しても良いかもしれない。
しかし!
稀にそうではない萌えアニメもある。
CLANNAD番外編「もうひとつの世界 智代編」がそうだ。
これは先の構図に当てはまらない数少ない作品の1つである。
一般的な萌えアニメでは、ヒロインが主であり主人公はオマケである。
これはCLANNAD本編でもそうだ。
ところが智代編では、めずらしくも主人公が主でありヒロインがオマケのような描写になっているのだ。
つまり、ヒロインを見て愛でる、この一般的手法を用いていない。
ヒロインを見て愛でる主人公を見るものだと言ったほうがいい。
全般的にCLANNADのヒロインは歳相応よりはるかに幼い。
ところが智代編のヒロインだけはそうではない。
チンタラしていた主人公の遥か上をゆく完成された人格者である。
たいへんな人格者のヒロインに愛されながら、その不釣合いに心を痛める主人公。
主人公がいなくても生きていけるヒロインへの救済を描くのではなく、不良を自認するダメダメな主人公のカタルシスや成長の描写。
(これくらいは不良というよりタダのグータラなだけなんだが、まあそれはおいといて…)
はじめてこれを見たときはフシギな感じを受けた。
CLANNAD本編(とくにアニメ版の第1期)は全般的に主人公視点でがんばるヒロインを見て「萌え~♪」とするものだ。
だが智代編だけはそうではなく、ヒロインの寵愛をうける主人公に同調し、葛藤する主人公を見て何かを感じとるのだ。
第2期にも多少用いられているこのあたりの描写テクニック、今までの萌えアニメにない視点の逆転をはかった、なかなかに興味深い手法ではないか!
ついでに言うと、わたしはこの作品に妙な既視感のようなものも感じた。
当blog記事の2009.03.02や2009.04.01で記したように、わたしの出身中学は極めつけにアレなところだった。
そんなところにいたものだから、当時のわたしは凶暴だったし酷く荒れていた。
中学校卒業後、まっとうな高校に入学した。
そこはいわゆる坊ちゃん学校の男子校だった(いまは共学らしいけど)。
そこでは生徒はわたしも含めて人間らしい扱いを受けた。
大人として尊重に値する教師(←ふつうはあたりまえのことなんだが…)に恵まれた。
そしてわたしはまっとうな人間に戻った。
大学にも進学することができた。
そんなわたしだからこそ、”不良を自認するダメダメな主人公のカタルシスや成長の描写” を見て何か思いだしたような気になるのだ。
わたしは共学の学校生活というとどうしても中学校を思い出してしまうので、智代編の主人公の高校生活をどうしても自分の中学校生活とダブらせて見てしまう。
そして高校卒業後の主人公の成長もまた中学卒業後の自分の歩みをダブらせてしまうのだった。
萌えアニメにもかかわらず、わたしはヒロインをあまり見ていなかったような気がしてならない。
ヒロインの智代もそれはそれで大好きだけどね。
【※1 もうひとつの世界 智代編】
CLANNAD「智代編」予告の動画
http://www.tbs.co.jp/clannad/clannad1/06special/images/tomoyo.asx
CLANNAD/DVD/8巻(通常版)
http://ishop.tbs.co.jp/ec/tbs/product/detail.jsp?pid=1957503&cid=cat12392
> <収録内容>
> 3話収録(22~24話)
うち23, 24話は地上波TV未放送であり、智代編はその24話に相当。