1987年4月のある日、私たちはびわ湖にいた。
朝から天気がよく、彦根港を出発した私たちは順調に調査を行っていた。
目的は、湖の濁度を調べることだった。
メンバーは、近畿大学の津田教授(故人)、深谷(学生)、篠原(学生)、村上(船頭)と私の5名だ。
濁度を計るのには、濁度計という測器をつかう。
正しくは光束透過率計と呼んでいた。
片方から光を出して、片方で受ける。
水の濁り具合にもよるが、30cmというのが定番の光路長だ。
光の減衰率を計るわけだが、これを消散係数と呼んでいる。
濁度は実際に採水してフィルターでろ過し、残った物質の重量を計る。
濁度と消散係数の間には、よい正の相関がある。
これ以外に、光の反射を計る濁度計もあるが、これは物質の素材によって反射率が変わるので必ずしも正しい数値を示さない。
多景島を過ぎて、沖の白石との中間あたりに差し掛かったあたりで昼食をとることになった。
ポカポカ陽気の下、観測も順調だったので、少しずつ状況が変化していることに全く気が付かなった。
少し波が出たかと思うと、急に強い北西の風が吹き始めた。
あわてて器械を回収し、彦根港へ帰港しようとする頃には、波高は1m位になっていた。
低い高さの漁船から見る高い波は、本当に迫力がある。
波の頭から谷に落ちると、周囲が全く見えなくなった。
そして船は、強く水面にたたきつけられる。
頭から波をかぶり、全員がずぶぬれになり始めた。
春とはいえ、水温はまだ冷たい。
12℃くらいの冷水を浴びせかけられ、波にもまれ、生きた心地もしない。
岐路についてしばらくしたとき、船頭が突然叫んだ。
「船先がはがれた!」
漁船は、グラスファイバーでできている。
船の先端が、強い波にたたきつけられ、裂けてしまったのだ。
船先にドンドン水が入ってくる。
前が重くなるので、船は水中に突っ込みそうになる。
あわてて船を止めた。
「おい、重いものを捨てよう!」
私たちは、高価な計測機器以外のものを水中に投げ入れた。
二つしかない救命胴衣は学生が身に着けており、他は、何もなかった。
どうせ、この水温なら、落ちたら10分は持たないだろう。
そんな考えが頭をよぎった。
進むに進めず、引くに引けに状況だった。
でも、神様は私たちを見捨てなかった。
船頭が、倉庫から水中ポンプとブルーシートを見つけだしてきた。
まず、水中ポンプで前の隔壁に入った水を吸い出した。
次第に船先が浮かび上がってきた。
そして、ブルーシートで船の先端を覆った。
こうして波が船内に入るのを防ぐとともに、波の速さより遅い速度でゆっくりと彦根港を目指した。
速く走ると、また波の中に突っ込むからだ。
全員が、頭の先からパンツの中までずぶぬれだった。
途中で竹生島から帰港する観光船が通り過ぎていった。
助けを求めて必死に手を振るが気が付いてもらえなかった。
まだ、携帯電話もない時代で、他への連絡手段もなかった。
こうして、日が沈むころ、やっと彦根港にたどりつくことができた。
運よく、船のエンジンに水がかからなかったのが救いだった。
あの時の津田先生は、すでに鬼籍に入られている。
二人の学生さんは、立派な社会人だ。
船頭さんも元気だ。
そして、私は、まだ琵琶湖と付き合いつづけている