2月14日に行った早朝座禅の法話で語られた般若心経における「空」の解釈…
今まで思ってきた疑問を優しく解説してくれた智賢和尚の言葉
その時のメモを読み返し、考えて得た結論を、徒然なるまま、ここに書き記したい
「空」とは…無
無…形あるものは、いつかは無くなってしまう
色即是空 空即是色
「空」すなわち「色」
色⇒実体⇒空⇒実体⇒無い…存在しない
眼・耳・鼻・口・舌 ⇒ 無い
感情は無いもの…この世の物は無い物である
そうすると、、私達は何?? … 無いものであるのに…
ベトナムの禅僧 ティクナットファンの解釈
空⇒独立した実体は無い
色即是空⇒私たちの体は独立した実体ではない
感情・思い・心の形… これらは独立したものではない
眼・耳・口も独立したものではない
体が有って眼・耳・口で感じられる
全てが関わっているから存在している
これ一つひとつが存在している訳では無い
心・感情 全てが関わって存在している
私達は「縁起」で成り立っている
例えば…
ひと粒の御飯 これにどれだけの御縁が関わっているか
水・太陽・風…色んなものの御縁が重なって米がある
御飯を盛り付ける器…誰かが作ってくれた
⇒御飯一粒も意識すると、無数の御縁が重なって成り立っている
これを食べて私たちの体は出来ている
⇒すべてのものが繋がっている…いろんなものが関わっている
それが「縁起」
まさに仏の教えとは「縁起」である
しかし、縁起にとらわれてしまっては今ある真実が見えづらくなってしまう
例えば…「偏界曾て蔵さず」
世の中はすべてあるがままの通り、見えなくなっているのは私たちの側に問題がある
精進料理は肉と魚は食べずに野菜で作る…しかしこれにとらわれたら野菜が少ない国では生きていけない
モンゴルなら動物主体になる…これでは仏の教えは伝わらない
⇒ 一つのものにこだわれば何も見えない
眼・耳・口にとらわれれば何も無い
体があって心…心があって体
全てを調える事が大切(調和)
自分は一人で存在している訳では無い
私と言う存在を証明してくれるのは周りの方々
⇒そんな関わり合いの中で自分は生きている
諸行無常
体(形)は、いつか無くなる
しかし、私たちの体は、いろいろな御縁で繋がっている
無い無いに捉われてもいけない
有る有るに捉われてもいけない
バランスが大切…真っ直ぐな自分に戻ること
仏の教えは、心の平穏を説いている
「空」の法話の解釈を終え、平穏な心で周囲を眺め、身近なところに目をやると、この文章を書いているディスクトップのパソコンが目に入る…
この筐体の中には、マザーボート・CPU・メモリー・グラフィックボート・ハードディスク・電源…
いずれもその単体では機能しないものばかり…つまり「無」
全てが集まってパソコンになり、そこにソフトウエアーが介在し、いま文章を書いている…全てが関わっているから、機能している… 一つのものでは機能しない
そして、見方を変えて、会社と言う組織…
大きなプロジェクトを行うには、それぞれの能力を持った人が集まり、1+1が3以上になる、大きな仕事を完遂している
その「人」も「無」によって成り立っている
しかし、全てが関わっている(繋がっている)から自分は存在している
つまり… 「色即是空」⇒私たちの体は独立した実体ではない
そう考えると、私たち自身の存在は「縁起」で成り立っていることを実感する
一人ではない… 私たちは色んなご縁で繋がっている…
これが自分なりの「空」の解釈です
今まで思ってきた疑問を優しく解説してくれた智賢和尚の言葉
その時のメモを読み返し、考えて得た結論を、徒然なるまま、ここに書き記したい
「空」とは…無
無…形あるものは、いつかは無くなってしまう
色即是空 空即是色
「空」すなわち「色」
色⇒実体⇒空⇒実体⇒無い…存在しない
眼・耳・鼻・口・舌 ⇒ 無い
感情は無いもの…この世の物は無い物である
そうすると、、私達は何?? … 無いものであるのに…
ベトナムの禅僧 ティクナットファンの解釈
空⇒独立した実体は無い
色即是空⇒私たちの体は独立した実体ではない
感情・思い・心の形… これらは独立したものではない
眼・耳・口も独立したものではない
体が有って眼・耳・口で感じられる
全てが関わっているから存在している
これ一つひとつが存在している訳では無い
心・感情 全てが関わって存在している
私達は「縁起」で成り立っている
例えば…
ひと粒の御飯 これにどれだけの御縁が関わっているか
水・太陽・風…色んなものの御縁が重なって米がある
御飯を盛り付ける器…誰かが作ってくれた
⇒御飯一粒も意識すると、無数の御縁が重なって成り立っている
これを食べて私たちの体は出来ている
⇒すべてのものが繋がっている…いろんなものが関わっている
それが「縁起」
まさに仏の教えとは「縁起」である
しかし、縁起にとらわれてしまっては今ある真実が見えづらくなってしまう
例えば…「偏界曾て蔵さず」
世の中はすべてあるがままの通り、見えなくなっているのは私たちの側に問題がある
精進料理は肉と魚は食べずに野菜で作る…しかしこれにとらわれたら野菜が少ない国では生きていけない
モンゴルなら動物主体になる…これでは仏の教えは伝わらない
⇒ 一つのものにこだわれば何も見えない
眼・耳・口にとらわれれば何も無い
体があって心…心があって体
全てを調える事が大切(調和)
自分は一人で存在している訳では無い
私と言う存在を証明してくれるのは周りの方々
⇒そんな関わり合いの中で自分は生きている
諸行無常
体(形)は、いつか無くなる
しかし、私たちの体は、いろいろな御縁で繋がっている
無い無いに捉われてもいけない
有る有るに捉われてもいけない
バランスが大切…真っ直ぐな自分に戻ること
仏の教えは、心の平穏を説いている
「空」の法話の解釈を終え、平穏な心で周囲を眺め、身近なところに目をやると、この文章を書いているディスクトップのパソコンが目に入る…
この筐体の中には、マザーボート・CPU・メモリー・グラフィックボート・ハードディスク・電源…
いずれもその単体では機能しないものばかり…つまり「無」
全てが集まってパソコンになり、そこにソフトウエアーが介在し、いま文章を書いている…全てが関わっているから、機能している… 一つのものでは機能しない
そして、見方を変えて、会社と言う組織…
大きなプロジェクトを行うには、それぞれの能力を持った人が集まり、1+1が3以上になる、大きな仕事を完遂している
その「人」も「無」によって成り立っている
しかし、全てが関わっている(繋がっている)から自分は存在している
つまり… 「色即是空」⇒私たちの体は独立した実体ではない
そう考えると、私たち自身の存在は「縁起」で成り立っていることを実感する
一人ではない… 私たちは色んなご縁で繋がっている…
これが自分なりの「空」の解釈です
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