2006年のドイツ映画です。
ただし、この考察は、この映画のあらすじや解説を述べるものではありません。
私がこの映画を見て感じた、権威とか商業主義などについての考えを述べます。
この映画は国民を監視や密告で抑え込んでいたベルリンの壁崩壊(1989年)以前の東ドイツで、反体制の劇作家を盗聴していた監視官がその過程で自由主義に目覚める姿を描いています。
アカデミー外国語賞をはじめとして、数々の賞に輝いた作品です。
しかし、私の正直な感想は、丁寧に作られた良質な映画とは思いましたが、ここまで高い評価を得る映画かな?というものでした。
ガチガチの体制側の人間であった主人公が、自由主義に目覚める内的必然性がぜんぜん描かれていないので、どうしても作り物めいてしまうのです。
それに、共産主義=悪、自由主義=善という単純な二元論的な描き方に、これが逆の立場に立った時にこの監督はまったく反対のものを作りそうな危うさを感じてしまいます。
作品自体の評価は自分で見ていただいて判断していただくとして、私がこの映画を見た過程について後で考えたことを述べます。
一言で言うと、アカデミー外国語賞などのいろいろな賞の受賞やネット上での評価の高さにひかれて、私はこの映画を見たのです。
他の方々も同様な手段で見る映画を選ばれている場合が多いと思いますが、そこにいわゆる権威(ここではアカデミー賞など)や商業主義の影響の怖さが潜んでいるような気がしました。
まず権威に関して言えば、それはあくまでもその時の政治や経済などの状況に強く影響を受けていると思います。
例えば、この映画では、自由主義体制側にとって評価され易い側面を持っていると思われます。
それが、この作品の持つ芸術性や監督の作家性などはそれほど高くなくても、アカデミー賞などのいわゆる権威に受け入れられたのだと思われます。
これは、以前の共産主義国の映画祭では、全く逆のことが行われていたでしょう。
この映画の場合、ベルリンの壁崩壊(1989年)以前に、東ドイツの弾圧のもとに秘かに作られたのなら全く状況が違います。
しかし、2006年のドイツを描くならば、東西統一によるさまざまな弊害によって苦しんでいるドイツ国民のありのままの姿を描いた方が、よっぽど今日的かなという気がしました。
東ドイツが監視国家だったことは、さまざまなメディアを通じて旧知のことですから、ベルリンの壁崩壊から17年もたってから描かれても今さらって気がします。
アカデミー賞が商業主義と深く結びついていることは初めからのことですが、近年その傾向が特に強くなった気がします。
最近はアカデミー受賞式自体も派手なショーになっていますが、アカデミー賞を取る(あるいはノミネートでも)ことが、日本での上映やテレビでの放映にも強すぎる影響を与えています。
数年前にアカデミー外国語賞をとった「おくり人」はなかなかいい映画(芸術性や社会性という点では、1950年代から1960年代にかけての日本の名画群には遠く及ばないでしょうが)でしたが、もし受賞しなかったらあれほどの商業的な成功はおさめなかったでしょう。
また、ネットでの評判にも注意する必要があります。
やはりこれらは、一種の人気投票でしかありません。
しかも、匿名性に保護されているので、その発言や評価の背景はまったくわかりません。
前に話題になった食べログのやらせ問題でも明らかになったように、何らかの操作を行うことも可能です。
映画だけでなく、文学作品(児童文学も含めて)を選ぶ時も、賞やネットなどの評判だけでなく、作家(監督)や作品をじっくりと検討して読む(見る)かどうかを慎重に選ばなくてはいけないなと、痛切に感じました。我々には有限な時間しか与えられていないのですから。