現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

デイビィッド・ウィズナー「3びきのぶたたち」

2017-09-18 11:32:46 | 作品論
 有名な昔話である「3匹のコブタ」のパロディ絵本です。
 オオカミに吹き飛ばされたブタが、物語の外(こまわりの外)に出てしまうのが、パロディのミソになっています。
 ただ、ブタたちの訪ねていくのが、マザーグースの童謡の世界だったり、竜の出てくる昔話だったりするので、それらにあまりなじみのない日本の子どもたちにはどうかなという気がしました。
 最後のオチでは、たぶんオオカミはスープにされてブタたちに食べられてしまったようなのですが、いまいちはっきりしませんでした。
 ただ、物語の中のブタたちの絵がいかにも絵本的なのに対して、物語の外へ出たブタたちの絵はリアルで、その対比は面白いと思いました。
 訳は人気作家の江國香織なのですが、それが作品の質の向上に生かされているとは思えませんでした。
 おそらく彼女の名前を借りて、大人の女性に売り込もうとしているのでしょう。

3びきのぶたたち
クリエーター情報なし
BL出版
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薫くみこ「はじめての歯医者さん」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 11:31:20 | 作品論
 「ちかちゃんのはじめてだらけ」(1994年)に含まれている幼年文学の作品で、編者の宮川健郎が転載しています。
 虫歯が一つもないことを自慢するクラスメイトの女の子(あまり主人公とは仲が良くないようです)と、それに張り合う主人公の言い争いからお話が始まります。
 そこに、虫歯がある主人公の仲良しの女の子や、サイダー瓶のふたを歯であけられると豪語するゴリラ似の男の子が、話に絡んできます。
 ひょんなことから、歯による瓶のふた開けを男の子に実演させたために、ふたの代わりに男の子の銀歯がとれてしまします。
 そうして、主人公は、男の子と仲良しの女の子と一緒に、はじめての歯医者さんへ行くことになるのです。
 歯医者さん慣れしている二人に比べて、主人公は、歯医者さんでははじめてのことばかりなので、びっくりしたりびびったりの連続です。
 主人公が、仲良しの女の子だけでなく、ゴリラのように思っていた男の子の良さにも気づくラストは、とても読み味がいいです。
 本の題名からすると、主人公のちかちゃんは、歯医者さんだけでなく、いろいろなはじめての体験をするようです。
 筒井頼子「はじめてのおつかい」(1977年)(その記事を参照してください)の成功以来、この種の作品は幼年文学や絵本の定番になっています。
 しかし、女の子向けエンターテインメント(「十二歳シリーズ」(1982年から)など)の名手である作者は、幼年文学でも格段の腕前の違いを見せています。
 編者は、自分の主張である「幼年童話=「俳句」説」(日本児童文学1995年7月号所収)を、長崎夏海「ぴらぴら」(1994年)、正道かおる「チカちゃん」(1994年)(主人公の名前はたまたま一緒ですが、薫作品とは無関係です)などを引用しながら、幼年童話は「象徴」、「暗示」、「省略」を多用して書かれているとしています。
 そして、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の特長である「散文性の獲得」から積み残されて、未だに「近代童話」の象徴性を維持しているとしています。
 つまり、幼年向きの作品は、「散文的」、「小説的」な「現代児童文学」ではなく、「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」(実際に幼年文学ではなく幼年童話と言われることの方がはるかに多いです)であるとしています。
 そして、薫作品は、そうした「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」ではなく、「具体的に語る」ことをえらんで成功しているとし、今後はそうした「幼年文学(幼年童話でなく)」を目指さなければならないのではないかとしています。
 編者の解説はここでも非常に的確なのですが、途中で触れている「現代児童文学」が当初目指していた「幼年文学」(いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」(1957年)、古田足日・田畑精一「おしいれのぼうけん」(1974年)など)がなぜ継承されなかったか、また、それらと今回の薫作品とはどのように違うのかが説明されていないのが不満です。
 私見を以下に述べます。
 幼年文学をめぐる主導権争いは、「現代児童文学」がスタートした当初からありました。
 そこには、大きく分けて三つの流れがあったように思われます。
 まず第一に、編者が指摘しているような小川未明らの「近代童話」の伝統がそのまま温存されたような作品群です(立原えりか、安房直子などの作品がその代表でしょう)。
 これらの作品の書き手が、古田足日が「幼年文学の現在をめぐって」(1985年)で語っているところの「童話的資質」に恵まれていれば、「子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」作品になり、広く長く読み続けられることになります(言うまでもありませんが、残念ながら「童話的資質」のない書き手の作品が大半です)。
 次に、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」といういわゆる「世界基準」の影響を受けた作品群で、多くの安易なステレオタイプの作品が量産されました(出版社の立場から見れば、本にしやすいという側面もあります)。
 これに対しては、繰り返し批判(小沢正「ファンタジーの死滅」(1966年)(その記事を参照してください)、安藤美紀夫「日本語と「幼年童話」」(1983年)(その記事を参照してください)など)がされましたが、今でも毎年量産されていて「悪貨は良貨を駆逐する」を幼年文学界で体現しています。
 最後が、「現代児童文学」が当初目指した散文的な「幼年文学」です。
 しかし、この幼年文学は、商業主義による児童書の軽薄短小化(簡単に読めるので売りやすく、簡単に書けるので量産シリーズ化がしやすいです)の中で、なかなか本になりにくい状態です。
 この分野の書き手は、かつての高学年や中学生向けの「現代児童文学」の書き手が多いです。
 なぜなら、他の記事にも書きましたが、「幼年文学」は「現代児童文学」にとっての最後のフロンティア(本になりにくいと書きましたが、高学年や中学生向けに比べればはるかにましです)になっているからです。
 それらに対する薫作品の「新しさ」は、「散文」の質の違いにあると思われます。
 もともとの「現代児童文学」の散文は、「アクション」と「ダイアローグ」が中心でした(関連する記事を参照してください)。
 「少年文学宣言(正確には「少年文学の旗の下に!」(1953年)(その記事を参照してください))」で、「小説精神」の少年文学(児童文学)を目指すとしたのとは裏腹に、「小説」ではなく「物語」的な性格が強いものでした。
 それが、1980年ごろに小説的手法が用いられた作品が増えて(背景などは関連する記事を参照してください)、それらにおいては描写を中心にして描かれるようになりました。
 こうした今までの「幼年文学」の散文に対して、薫作品の「新しさ」は、「エンターテインメント」の散文を「幼年文学」に導入したことではないでしょうか。
 エンターテインメント作品の散文は、よりスピーディなストーリー展開を得るために、できるだけ描写は排して、登場人物(特に脇役)には平面的なキャラクター(この作品ではゴリラのような男の子、意地悪な女の子など)を使い、「アクション」と「ダイアローグ」は適切な説明文を使って省略できるところは省略しています。
 那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズなどで広く使われるようになった、こうしたエンターテインメント用の散文は、読者が読むスピードをあげられるだけでなく、書き手が作品を量産するのにも向いています。
 「現代児童文学」において、最初の成功した女の子向けエンターテインメントシリーズのひとつである「十二歳」シリーズの作者が、こうした散文に熟練していたことは言うまでもありません。
 他の記事にも書きましたが、説明文を多用した散文(那須作品や薫作品は適度な使い方をしているので、これには当てはまりません)による書き方は、現在の大人用のエンターテインメント作品でも一般的になっています。

 
ちかちゃんのはじめてだらけ (シリーズ本のチカラ)
クリエーター情報なし
日本標準

  
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岩瀬成子「ダイエットクラブ」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 09:05:41 | 作品論
 1993年に、雑誌「日本児童文学」に発表されて、その後加筆修正されて雑誌「ひと」に掲載されたものを、編者の宮川健郎が転載しています。
 小さいころから肥満児(一家全員が肥満しているので、遺伝と食生活と運動不足が原因のようです)だった主人公の女の子は、五年生の時に小児科で成人病予備軍とと診断されてしまいます。
 それにショックを受けた母親は、一家でダイエットに取り組むことを宣言し、かなり極端なダイエット食と運動を開始します。
 さらに、主人公と母親は、ダイエットクラブ(肥満児とその母親(彼女自身もやっぱり太っている)たちが、たがいに励ましあってダイエットに取り組むサークルのようです)やスイミングクラブにの加入します。
 母親の食生活改善の努力と、毎朝のランニングでの父親の励ましもあって、一家全員(成長期の弟だけは免除されています)が順調に体重を減らします。
 しかし、ダイエットクラブの落ちこぼれ(みんなの努力を馬鹿にして、表向きはダイエットに背を向けています)の友だちを、ダイエットに目覚めさせようと、ショック療法的に行ったマクドナルドとドーナツショップで極端な過食したことをきっかけに、主人公はダイエットをやめてしまい、三年後の今では体重は75キロあります。
 家族では、姉(見違えるようにやせてきれいになって、やせ形のスポーツ選手との結婚も決まっています)以外はダイエットをやめてしまい、最初から参加しなかった弟も含めて、みんな鯨のように太っています。
 一方、ショック療法で立ち直った友だちの方は、ダイエットを続けてスリムになっています。
 作者は、ダイエットを続けるのがいいとか、太っているのが悪いとか決めつけずに、あるがままの主人公の気持ちを描いています。
 編者は、この作品を、小説的手法で描いて児童文学と一般文学の境界があいまいになっている作品の例として取り上げていて、作者の他の作品(「朝はだんだん見えてくる」(1977年、デビュー作)、「だれか、友だち」(「日曜日の手品師」(1989年)所収)、「迷い鳥とぶ」(1994年)、「イタチ帽子」(1995年)、「ステゴザウルス」(1994年)、「やわらかい扉」(1996年))も紹介して、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)的な「物語」から「小説」へ移行して、「児童文学」から「一般文学」へ越境しているとしています(この作品の発表媒体も、「児童文学」誌から一般紙へ移行しています)。
 例によって編者の解説は非常に適切なのですが、こうしたことが「現代児童文学」にどのような影響を与えたか(あるいはこれから与えそうか)については、言及していません。
 私見を述べれば(編者の文章より約二十年後に書いているので、当然その後の経過も含んでいます。この本が書かれた1997年ごろにすでにこのようなことを考えていたわけではありません)、こうした「小説化」は「現代児童文学」に二つの「空洞化現象」を生み出しました。
 一番目の空洞化現象は、こうした作品が児童文学読者の高年齢化を生み出し、新しい読者(主に若い女性でしたが、現在では女性全体に広がっています)を獲得した一方で、児童文学のコアな読者である小学生向けの作品が質、量ともに(特に質の面において)手薄になり、小学生(特に男の子)の児童文学離れを加速してしまいました。
 この作品でも、小学生の女の子の背後に大人の女性である作者の視線が濃厚に感じられて(特にマクドナルドとハンバーガーショップのシーンで)、この作品は児童文学ではなく、子どもを主人公にした一般小説になっています(ただし、「日本児童文学」掲載の初期形は未読のため、その時にどうだったかは検討していません)。
 編者は、「私には、子どものふりをして書きたがっているようなところがある。」(「日本児童文学」1994年10月号の共同討議「視点と語り」において)という作者の発言を紹介して、作者はそれほどまでに、主人公に密着して語り、作者自身も、主人公を相対化していないのだろうとしています。
 編者がどこまで意識して書いていたかはわかりませんが、ここにおける作者自身はとうぜん「大人の女性」で、主人公が相対化されていないとしたら、主人公もまた子どものふりをしている「大人の女性」なのです。
 こうした作品が、子ども読者(特に男の子)の児童書離れを起こしたのも、しごく当然のことかもしれません。
 二番目の空洞化現象は、優れた児童文学の書き手(特に女性)の一般文学への「越境」です。
 この問題はあまり表立って論じられることがないのですが、江國香織、森絵都、梨木香歩、湯本夏樹実、あさのあつこなど、一般文学へ越境していった例は、あげたらきりがありません。
 よしもとばなな、綿矢りさ、角田光代なども、初期の作品は児童文学で言えばヤングアダルトの範疇に入るでしょう。
 この中には、あさのあつこのように児童文学の作品も書き続けている作家もいますが、もしこれらの作家がすべてその後も児童文学を中心に書き続けていたら、子どもたちは現在よりももっと芳醇な児童文学作品群を手に入れていたことでしょう。
 しかし、これらの越境現象は、以下の理由で当然のことと思われます。
 まず第一に、彼女たちが年齢を重ねるにつれて、書きたい作品世界が児童文学の範疇に収まり切らなくなっていたであろうことがあげられます(マーケティング用語で言えば、作り手側にシーズがあったということになります)。
 次に、彼女たちの主な読者たちもまた年齢を重ねて、児童文学の範疇でない彼女たちの作品を読みたかったのでしょう(マーケティング用語で言えば、顧客のニーズがあったということです)。
 そして、一番大きな理由は、一般文学の方が、はるかにたくさん本が売れる(お金になる)ということで、プロの作家としては最も大事な点でしょう(マーケットサイズが、比べ物にならないほど大きいということです)。
 そうした状況の中で、現在でも、子どもたちを取り巻く今日的な問題を、「児童文学」(「きみは知らないほうがいい」(2014年)(その記事を参照してください)「ぼくが弟にしたこと」(2015年)(その記事を参照してください)など)として書き続けてくれている(読書感想文の課題図書にでもならないかぎりそんなに本が売れないるので、あまりお金にはならないでしょう)作者には、敬意を払いたいと思います。

児童文学―新しい潮流
クリエーター情報なし
双文社出版






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