現代児童文学史ノートと銘打った連載のその1です。
冒頭から自己弁明で始まり、「自分が児童文学史を書くとして、きちんと資料を読み込んで時系列的に記述を積み上げていくという方法は、時間的にも僕の体質的にも無理だろうと思った。そこで考えたのは、ある程度時間軸に沿いつつも、テーマというか、観点を立てて、それによって記述していく方法である。」と述べています。
ここで藤田がモデルとしているのは、安藤美紀夫の「世界児童文学ノート」なのですが、この本は時間的にも分野的にも膨大な「世界児童文学」を安藤の観点で切り取るのに有効な手段ではありましたが、時間的にも分野的にも狭い現代(日本)児童文学史を記述するならば、やはりきちんと資料を読み込み、現代児童文学の始まりから終焉までをきちんと時系列に述べるべきでしょう。
管見では、現代児童文学を論じた優れた論文としては、石井直人の「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)、佐藤宗子の「現代児童文学をふり返って」(その記事を参照してください)、宮川健郎の「現代児童文学の語るもの(これは彼の複数の論文を一冊にしたもので、全体として一つの現代児童文学論としてまとまっているわけではありません)などがありますが、これらをふまえた上でさらに藤田独自の論考を加えたものを期待したいところですが、どうでしょうか?
18枚×6回という紙数の制限も言い訳にしていますが、合計百八枚あれば、かなりまとまったものがかけるはずです。
その貴重な一回分を、前ふりと思い出話に費やしてしまったのは、非常にもったいない感じがします。
二回目以降は、もう少しアカデミックな書き方にしてもらいたいと思います。
もっとも、「日本児童文学」は日本児童文学者協会の機関誌なので、研究者ではない大半の読者(現役の児童文学作家や編集者とその予備軍が主体でしょう)は現代児童文学史に疎いので、このようなエッセイ風な書き方の方が適当なのかもしれません。
冒頭から自己弁明で始まり、「自分が児童文学史を書くとして、きちんと資料を読み込んで時系列的に記述を積み上げていくという方法は、時間的にも僕の体質的にも無理だろうと思った。そこで考えたのは、ある程度時間軸に沿いつつも、テーマというか、観点を立てて、それによって記述していく方法である。」と述べています。
ここで藤田がモデルとしているのは、安藤美紀夫の「世界児童文学ノート」なのですが、この本は時間的にも分野的にも膨大な「世界児童文学」を安藤の観点で切り取るのに有効な手段ではありましたが、時間的にも分野的にも狭い現代(日本)児童文学史を記述するならば、やはりきちんと資料を読み込み、現代児童文学の始まりから終焉までをきちんと時系列に述べるべきでしょう。
管見では、現代児童文学を論じた優れた論文としては、石井直人の「現代児童文学の条件」(その記事を参照してください)、佐藤宗子の「現代児童文学をふり返って」(その記事を参照してください)、宮川健郎の「現代児童文学の語るもの(これは彼の複数の論文を一冊にしたもので、全体として一つの現代児童文学論としてまとまっているわけではありません)などがありますが、これらをふまえた上でさらに藤田独自の論考を加えたものを期待したいところですが、どうでしょうか?
18枚×6回という紙数の制限も言い訳にしていますが、合計百八枚あれば、かなりまとまったものがかけるはずです。
その貴重な一回分を、前ふりと思い出話に費やしてしまったのは、非常にもったいない感じがします。
二回目以降は、もう少しアカデミックな書き方にしてもらいたいと思います。
もっとも、「日本児童文学」は日本児童文学者協会の機関誌なので、研究者ではない大半の読者(現役の児童文学作家や編集者とその予備軍が主体でしょう)は現代児童文学史に疎いので、このようなエッセイ風な書き方の方が適当なのかもしれません。
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