児童文学が、「児童」と「文学」の二つの中心を持つ楕円構造をしているとして解説してくれたのは、児童文学研究者の石井直人です(詳しくはその記事を参照してください)。
他の記事にも書きましたが、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、常に、その二つの中心の間で揺らいできました。
実際に児童文学を書こうとすると、大体の場合は、「児童」に力点を置くと「子ども読者」を強く意識しますし、「文学」に力点を置くと書き手としての自己表現が中心になってきます。
そのどちらも意識せずに、すんなりと「児童文学」は書ければ、それに越したことはないのですが、そうした作品は非常にまれな幸福な作品と言えるのではないでしょうか。
「子ども読者」を意識した場合、その作品の文学性は(子ども読者にも理解できるかという)制限がどうしても付きまとってしまいます。
一方、自己表現としての「文学」を追及すると、結果として子ども読者には理解できない「児童文学」ではないものになる恐れがあります。
その折衷案として、最近見かけるようになったのが、エンターテインメント作品の中に、ここぞという箇所だけに「文学的表現」を散りばめる手法です。
出版される前の作品なので具体的には紹介できないのですが、例えば、子どもの好きなホラー作品の中に、非常に美しい心の琴線に触れるような描写や表現が、作品のクライマックスなどで使われたりしています。
こうした手法は、文学的な児童文学作品(変な言い方ですが)の書き手が、そうした作品の刊行は現在の出版状況の中では難しいので、より本になりやすいエンターテインメント作品を書くことによって生み出されているようです。
希望的な仮説にすぎないのですが、そうしたエンターテインメント作品を手にした子ども読者が、美しい心の琴線に触れるような描写や表現を実際に読むことによって、もっと文学的な児童文学にも手を伸ばすようになったらと願わざるを得ません。
他の記事にも書きましたが、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、常に、その二つの中心の間で揺らいできました。
実際に児童文学を書こうとすると、大体の場合は、「児童」に力点を置くと「子ども読者」を強く意識しますし、「文学」に力点を置くと書き手としての自己表現が中心になってきます。
そのどちらも意識せずに、すんなりと「児童文学」は書ければ、それに越したことはないのですが、そうした作品は非常にまれな幸福な作品と言えるのではないでしょうか。
「子ども読者」を意識した場合、その作品の文学性は(子ども読者にも理解できるかという)制限がどうしても付きまとってしまいます。
一方、自己表現としての「文学」を追及すると、結果として子ども読者には理解できない「児童文学」ではないものになる恐れがあります。
その折衷案として、最近見かけるようになったのが、エンターテインメント作品の中に、ここぞという箇所だけに「文学的表現」を散りばめる手法です。
出版される前の作品なので具体的には紹介できないのですが、例えば、子どもの好きなホラー作品の中に、非常に美しい心の琴線に触れるような描写や表現が、作品のクライマックスなどで使われたりしています。
こうした手法は、文学的な児童文学作品(変な言い方ですが)の書き手が、そうした作品の刊行は現在の出版状況の中では難しいので、より本になりやすいエンターテインメント作品を書くことによって生み出されているようです。
希望的な仮説にすぎないのですが、そうしたエンターテインメント作品を手にした子ども読者が、美しい心の琴線に触れるような描写や表現を実際に読むことによって、もっと文学的な児童文学にも手を伸ばすようになったらと願わざるを得ません。
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