1973年の大学一年の時に書いた私の評論です。
そのころの読みと、四十年以上たった今の考えとの変化について考察してみたいと思っています。
最初に表題ですが、佐藤さとると面識がないこととその背景になる環境について調べていないので、このような表題になっていると思われます。
ただし、手に入る限りの作品とその解説および評論類にはあたってから書いているようです。
論文の中で、「だれも知らない小さな国」を中心にして書いています。
その理由として、この作品が「彼の延べたい「だれもが持っている自分自身の心の中の小さな世界=内在的価値」について、いちばん明確に、あるいは唯一かもしれないが、提示されているからである。」としています。
「だれも知らない小さな国」を評価する場合に中心においているのは、「歴史的価値」だとしています。
その根拠として、発表から15年近くたっても、「毎年生み出されている作品群に埋もれることなく、戦後の児童文学の指標として、輝きを保っているからである。」としています。
この評価は、その後五十年近くたっても、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」と並んで現代日本児童文学の出発点として、私の中ではますます堅固になっています。
そのころの読みと、四十年以上たった今の考えとの変化について考察してみたいと思っています。
最初に表題ですが、佐藤さとると面識がないこととその背景になる環境について調べていないので、このような表題になっていると思われます。
ただし、手に入る限りの作品とその解説および評論類にはあたってから書いているようです。
論文の中で、「だれも知らない小さな国」を中心にして書いています。
その理由として、この作品が「彼の延べたい「だれもが持っている自分自身の心の中の小さな世界=内在的価値」について、いちばん明確に、あるいは唯一かもしれないが、提示されているからである。」としています。
「だれも知らない小さな国」を評価する場合に中心においているのは、「歴史的価値」だとしています。
その根拠として、発表から15年近くたっても、「毎年生み出されている作品群に埋もれることなく、戦後の児童文学の指標として、輝きを保っているからである。」としています。
この評価は、その後五十年近くたっても、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」と並んで現代日本児童文学の出発点として、私の中ではますます堅固になっています。
![]() | コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語) |
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